miracle apple laboratory #2

This is PIRONISM BLOG from The Apple Jack for the practice of writing knowledge to the text.


テーマ:

先日、溜まっていたHDDビデオレコーダーの録画データを整理していたら、2年前に放送された『SONGS』(NHK)の中森明菜特集回が見つかった。

当時、芸能活動を休止していた明菜が、復帰の場へ選んだのが『紅白歌合戦』。

そこで披露された新曲“Rojo -Tierra-”が、浅倉大介作曲によるEDM調の作品だったのを、覚えている人も多いだろう。

 

 

今年、35周年となる中森明菜の芸能生活を振り返る上で、どうしても切り離せない話題は1989年の自殺未遂騒動だ。

 

それ以降も、明菜はそれなりに輝かしい実績を積み重ねたはずだが、あの騒動のインパクトはあまりにも大きく、数々のゴシップもあり、いつ壊れてもおかしくない危なっかしさが付きまとっていた。

そして“DESIRE”“ミ・アモーレ”などに代表される、トップアイドルとしての時期と比較され、「堕ちたかつての大スター」とでもいうべき、どこか悲劇を背負っている印象を与え続けた。

1990年以降の明菜の歴史は、かつて80年代に持っていたはずの輝きとの闘いであったと言える。

 

2015年の復活劇もまた、過去の幻想との闘いの一環であったように思う。

僕は、その舞台へ向けて作り上げた新曲に、小室哲哉の弟子的存在である浅倉大介を起用したことから、1993年の明菜のことを思い出した。

 

 

みんな大好きWikipediaによると、1992年に連続ドラマ『素顔のままで』(フジテレビ)に出演し、高視聴率を記録しながら、当時の明菜は事務所トラブルとともに、音楽制作上の意見の相違によりレコード会社を移籍するなど、歌手としては不遇の時期を過ごしていたという。

シングルリリースとしては、手首事件からのカムバック作“Dear Friend”(1990年)以降、“水に挿した花”(1990年)“二人静”(1991年)といったあたりで、ヒットはしていたものの、1984~1987年あたりの楽曲に比べると地味な印象があった。

 

そして1993年、事務所トラブルがひと段落し、心機一転、ワーナーミュージックからMCAビクターへとレコード会社を移籍。5月にシングルEverlasting LoveNOT CRAZY TO ME、9月にアルバム『UNBALANCE+BALANCE』をリリース、となる。

 

 

両A面扱いのシングル2曲は、プロデューサーに大物、世界の坂本龍一を迎え、移籍第1弾として慎重な売り出しが図られたことが窺えた。

しかし、この曲は全くヒットしなかった。オリコンチャート最高位10位というのは、当時の明菜にとっては不本意な成績だった。

実際に楽曲を聴いてみると、ダウンテンポの打ち込みサウンドによる落ち着いたバラードの1曲目、そしてクールなハウスサウンドの2曲目。当時、アメリカ発のクラブミュージックに傾倒していた坂本龍一らしい、シックなナンバーではある。

恐らく、より大人になった明菜を印象付けるものとして、この2曲が選ばれたのではないか。が、歌謡曲としてはどうだろうか?

 

ここで1つ目の「タラレバ」。もし、仮に移籍第1弾に違う曲が選ばれていたら?

アルバム『UNBALANCE+BALANCE』には、後にシングルカットされる松本隆作詞・小室哲哉作曲“愛撫”が収録されている。実際に、“愛撫”を先行シングルとしてリリースする案もあったらしい。しかし、スタッフ間の話し合いによってその案は回避されたという。

過剰にメロディアスでエモーショナルな“愛撫”は、アルバム発売直後から有線チャートでヒットとなり、シングルカット以降は数々の歌番組で歌われた。その時の、狂おしく踊りながら歌う明菜を見て欲しい。

これこそが、僕らの求めている明菜ではないだろうか?

しかし、遅れてシングルカットしたとしても、チャート的な伸びは乏しい。カヴァー曲“片思い”とのカップリングでシングルリリースされた“愛撫”は、オリコンチャート最高位17位に留まった。

 

 

ついでに2つ目の「タラレバ」。もし、“愛撫”が1993年に大ヒットしていたら?

明菜の完全復活を印象付けた上に、作曲者の小室哲哉にも違う道が開けていたかもしれない。

1993年の小室哲哉は、TMNの活動を一旦保留状態にし、trfのプロジェクトをスタートさせていた。しかし“survival dAnce”や“Boy meets Girl”などのヒットは生まれていなく、“EZ DO DANCE”がじわじわと売り上げを伸ばしつつあったが、まだ完全には軌道に乗っていなかった時期である。

小室哲哉のプロデュース業には、実は失敗も多く、特にクラブミュージックへ思い切り舵を向けたものに関しては中途半端にフェイドアウトしていく場合もある。仮に、明菜プロデュースが大成功していたら、小室はあそこまでtrfに心血を注いでいただろうか?

また、篠原涼子“恋しさと せつなさと 心強さと”(1994年)などの、アイドルプロデュースがどれだけ量産されただろうか。もしかしたら、新人ではなく大物歌手からのプロデュース依頼が増えていたかもしれない(80年代の小室哲哉はそういう職人的仕事を数多くこなしていた)

 

実際には、“愛撫”はスマッシュヒットという形で終わり、1996年にはその再来が期待された明菜&小室タッグによるシングル“Moonlight Shadow -月に吠えろ-”がリリースされたものの、その頃の小室は既にTKファミリーを築き、粗製乱造状態に入っていたのだった。

 

 

さらに3つ目の「タラレバ」。この時期、坂本龍一も明菜との再タッグを狙っていたのである。

1995年にリリースされた坂本のアルバム『SMOOCHY』1曲目に収録された“美貌の青空”は、中森明菜に歌ってもらおうとしていた楽曲だという。ご丁寧にも作詞に“少女A”“1/2の神話”“禁句”“十戒”などの売野雅勇を迎えていることからも、本気度が感じられる。

楽曲を聴けば“Everlasting Love”とは違い、(森俊彦によるリズムトラックが五月蝿いことを除けば)明らかに明菜へと寄せてきたことが分かる。「気高さに 溺…れていた…」の歌い回しや、サビの官能的な盛り上がりなどは完全に明菜が憑依したようなメロディーラインになっている。

YMO“テクノポリス”を作る際に、ピンクレディーの楽曲を構造分析した上で作曲にあたったという坂本なだけに、明菜楽曲を研究した上で“美貌の青空”を作り上げたことは想像に難くない。

しかし、この再タッグは実現しなかった。恐らくは、坂本作品へのフィーチャリング扱いという依頼に明菜側がNGを示したのではないかと予想するが、仮に明菜へ“美貌の青空”が提供されていたら? でなくとも、坂本フィーチャリング明菜として歌番組に登場したらどうなっていただろうか?

 

“美貌の青空”が坂本のソロ・キャリア上でも、相当に強いメロディを持っている楽曲であることは誰もが認めるところだ。

その後、坂本のピアノ・トリオ作『1996』で再演された“美貌の青空”は、A・G・イニャリトゥ監督の映画『バベル』に使用され、その縁から映画『レヴェナント:蘇えりし者』での仕事にまで繋がっている。

その強いメロディの一端に明菜の歌心が加わっていることは、多くの人には知られていない裏話である。

 

 

2000年代以降、明菜はカヴァー企画『歌姫』シリーズや、パチンコ『CR中森明菜』など、“歌姫”という立ち位置を確立し、歌謡界に生き続けている。

浅倉大介作曲による“Rojo -Tierra-”は『紅白』効果もあり、チャート上はベストテン入りしたという。

しかし、それらによって明菜復活が世間に印象付けられたかというと、結果は言うまでもない。

 

僕は今も“愛撫”で歌い踊る明菜の姿をYouTubeで観ることがある。「明菜が“あの”明菜だった、今のところ(そして、多分)最後の時期」として。

1993年にもしかしたら訪れたかもしれない明菜の華麗なる復活劇を夢想しながら。

 

AD
いいね!した人  |  リブログ(0)

AD

ブログをはじめる

たくさんの芸能人・有名人が
書いているAmebaブログを
無料で簡単にはじめることができます。

公式トップブロガーへ応募

多くの方にご紹介したいブログを
執筆する方を「公式トップブロガー」
として認定しております。

芸能人・有名人ブログを開設

Amebaブログでは、芸能人・有名人ブログを
ご希望される著名人の方/事務所様を
随時募集しております。