『墓じまいラプソディ』
(垣谷美雨著 朝日新聞出版)
このタイトルで垣谷さん。面白くないわけがありません。
結婚したときどちらの姓になるのか、お墓は誰が守るのか、がテーマです。
松尾家では、壱郎が数年前、「松尾家累代之墓」と刻まれた墓の隣に、ひときわ目立つ立派な墓誌を建てた。
板状の大理石に、先祖の戒名と俗名、その下に亡くなった年月日と享年が彫られている。
そのうえ墓地のぐるりを大理石の柵で囲い、総額200万円以上かかったという。
役所勤めだった壱郎は出世して副市長にまで上り詰めたから、親族の中での出世頭だと、会う人ごとに臆面もなく自慢して豪快に笑うメデタイ人間だ。
そして去年の暮には、これまた自画自賛の自分史を150万円もかけて自費出版し、親戚と近所中に配ったのだ。
ところがその妻、喜子が先日亡くなり、死ぬ間際に娘の光代にこう言っていた。
「松尾家の墓には死んでも入りたくない」
このお話の主人公、松尾五月は思います。
あれほど完璧な良妻賢母に見えた姑が、実は舅のこと大嫌いだったってことだよね?
何十年も恨みを溜めて生きてきたってことだよね?
人間というものは、どうしてこうも言いたいことを何ひとつ言えずに我慢して生きているのだろう。姑の心中を察すると、胸が締め付けられるようだった。
姑は着物の似合う上品な人だった。そんなイメージとの落差があまりにも大きくて、呆然とした。
舅のどこがそれほど嫌いだったんだろう。あの世代の男にしては物分かりがいい方だと思うし、姑に対しても横暴なところは見たことがない。
明るい単純細胞だから陰湿なところもない。
もしかして浮気したとか?いや、それはないだろう。あんなド田舎じゃすぐに噂になるから副市長にはなれないと思う。
だったら浪費癖があるとか?そういえば無用な自費出版といい、立派な墓といい・・・だけどそれで破産したとか生活に困ったふうでもないから、余裕があってのことなんだろうし。
光代は父親の壱郎に母の遺言を伝えられず、まずは兄弟に相談します。
「お母さんはね、まさかお父さんより先に死ぬなんて思ってなかったわけよ。お父さんが死んだあとに人生を謳歌しようと思ってじっと我慢して生きてきたの」
「だからさ、姉ちゃん、いったい何に我慢してたわけ?親父は横暴な男じゃなかっただろ?」
「横暴じゃなくても嫌なのよ。女は自由が欲しいの。良妻賢母の役から逃れて本来の自分に戻りたかったのよ。言い方は悪いけど、お父さんが死ぬのを今か今かと待ってたの。そしたら自分の方が余命宣告されちゃってさ、まったく可哀想に」
3きょうだいの話し合いなんだから、部外者の五月が口を出すべきではないと思いつつ、興味が抑えきれず尋ねてしまいます。
「あのう、お義母さんに樹木葬にしてほしいと言われたとき、お義姉さんはその場で了承されたんですよね?」
「もちろんよ。絶対に樹木葬にしてあげるから安心してって、何度も言ったわ」
「だったら、それでもう十分じゃないですか?」
3きょうだいは一斉に五月を見た。
あれ?また非常識なことを口走ったのだろうか。でも言いかけてしまったのだから仕方がない。
「だって死んじゃったら人間は無ですから。あとはこちらの都合でいいんじゃないでしょうか」
「こちらの都合って?」と義姉が尋ねる。
「最もお金のかからない合理的な方法で。となると、やはり今あるお墓に入ってもらうのがいいんじゃないでしょうか」
「だけど、それじゃあお母さんが可哀想じゃないの」
「お義姉さんは、死後の世界を信じておられるんですか?」
「まさか。信じてないわよ。子供のころから科学で証明できないことは信じるなってお父さんに言われて育ってきたしね。
でもやっぱり、あれだけお母さんに懇願されると私もつらくて・・・
死んだあともお父さんと一緒だなんて本当に勘弁してほしいって。お母さんの必死の眼差しが忘れられないのよ。私に頼んだのも、私を信頼してのことだと思うのよね」
姑はそこまで舅のことが嫌いだったのか。
浮気や暴力や借金という大事件があったわけではないらしい。だが長年に亘って姑は耐えてきたという。
「本当は樹木葬じゃなくてお母さんの実家の墓に入りたかったらしいの。でも名字も違うし、伯父さんが家を継いでいるから今さら無理に決まってるって目に涙を溜めたのよ」
「わかった。じゃあ樹木葬にしよう」と義兄がさも簡単そうに結論づけた。
「だってそうしなきゃ光代が罪悪感を引きずって生きていくことになるだろ?今生きている人間がいちばん大切だと思うからさ」
「ええっ、だったら俺は親父しかいない墓に入るのかよ」と夫は不満げだ。
「五月さん自身はどこのお墓に入るつもり?縁もゆかりもない新潟の片田舎の墓に入るのって、本音を言えば嫌なんじゃないの?」
「お義姉さん、私は嫌じゃないですよ。それどころか、新潟に立派なお墓があって有難いと思っています」
だって新たにお墓を建てるのもお金がかかりますしね。
そもそも死んだあと自分の骨がどうなろうと全く興味ないですから。
でも光代は考えます。
この先、何かに悩んだり人生に躓(つまず)いたりしたとき、私は墓の前に立ち、心の中で母に話しかけるだろう。
―――こんなことがあったんだわ。どうしたらええかな?お母さんはどう思う?
そう尋ねるとき、母が絶対に入りたくないと言っていた「松尾家累代之墓」では無理なのだ。
母との約束を破っておいて、母に甘えるなんてできない。
母に話しかけたところで、「松尾家累代之墓」の中から恨みがましい目で私をじっと睨むんじゃないかと思う。
―――お義姉さんは、死後の世界を信じておられるのですか?
そうじゃないよ。五月さん、そうじゃないんだよ。
でも、この気持ちをどう表現すればいいかわからない。
兄や弟に相談するまでもなかった。
どうやら私は、誰が何を言おうと樹木葬にすることを譲るつもりはなかったらしい。
兄がさっさと多数決で決めてくれてよかった。
それにしても気が重い。
母の遺言を私一人で父に伝えなければならないなんて。
小学生の頃から、人の意見をまとめるのが得意だった。今も町内会とか婦人会の会合に出ると、いつの間にかまとめ役になっている。
だが今回だけは自信がなかった。
私がまとめ役になってしまうのは、たぶん父が町の寄り合いなどに行くときに、幼かった私をいつも連れていったからではないかと思う。
そこには、話し合いとも言えないような雰囲気があった。
ぐだぐだと世間話や噂話をするから、議事がなかなか進まなかった。
そんな帰り道、小学校で学級委員をしていた私は父に抗議したことがある。
ーーーさっさと多数決を取りゃあええじゃないの。なんで、そうせんの?
ーーー多数決は恨みが残る。光代は時間がもったいないと思ったかもしれんが、こういうのをガス抜きっていうんだわ。
だらだらと話をする間に和やかな空気になり、そのうち互いに譲り合って決まるのが、最も賢明なやり方だというのが父の持論だった。
そのときの私は子供だったから、大人の世界とはそういうものかと納得したが、長じてからは、そのからくりが見えてきた。
見かけ上は全会一致にしたいのだ。
長い時間を経て、みんなが話し合いに疲れ果てたころ、時間切れでどうしても決めなくてはならないからという理由で、ことを決する。
勝者も敗者も作らず、渋々であっても全員が同意したという形を取る。
そうすれば失敗しても誰も責任を負わなくて済む。それが小さな集落でうまく暮らしていく知恵なのだろう。
そして壱郎は、娘の光代から妻の喜子が樹木葬を望んでいたと聞かされます。
本当に腹が立つ。
樹木葬だと?
俺と同じ墓に入りたくないだと?
喜子のやつ、恩知らずにもほどがある。俺がいたからこそ平穏無事に生きてこられたんじやないのか。
専業主婦でぬくぬくとしていられたのは、いつたい誰のお陰なんだ。俺のどこがそんなに悪かったっていうんだ。
問い詰めたくても…喜子はもういない。
そこへ近所に住む姉が訪ねてきます。
「光代ちゃんから聞いたよ」
「聞いたって何を?」
「樹木葬のことに決まっとるでしょう」
「樹木葬?ああ、あれね」
「とぼけとる場合じゃないよ。もう日にちがないんだから今日にでも決めんと」
「…うん、わかっとる」
「本当は私、喜子さんの気持ちもちょっとわかるんだわ」
「えっ、どういうこと?」
「壱郎ちゃんは私と同じで、みんなに嫌われとる」
「嫌われとる?みんなって誰に?」
「親戚連中にも兄弟姉妹にも近所の人らにも」
「そんなことないだろ。なんで俺が嫌われるんだよ」
反発してみたものの、6人きょうだいのうちで連絡を寄越すのは、この姉だけだった。
弟2人と妹2人は電話さえかけてこない。
「なんで姉ちゃんはそんなこと知ってるの?姉ちゃんのところには、あいつらから連絡があるのか?」
「あるわけないでしょ。みんな私のとのろには寄りつかんもん。
老後は妹らと女同士で温泉行ったりして仲良うしたいと思ってたのに、電話してもすぐに切ろうとする。
理由を聞いても忙しいの一点張り。この前思いきって問い詰めてやったわ。
あんたらもええ歳になって、もうとっくにパートも辞めたくせに何が忙しいのか、嘘をつくなって怒鳴ってやった」
「そしたら?」
「そしたらやっと本音を吐いた。お姉ちゃんはいつも偉そうに説教ばっかりして、子供の頃から大嫌いだったとはっきり言われた。
私は相手のことを想って助言してあげているつもりなんだけどね。そもそも世の中に、私ほど親切な人が他におるか?
感謝知らずばっかりで困ったもんだわ」
姉は自分の考えをいつも押しつけてくる。自分が一番でなければ気が済まない。
それが証拠に、喜子の葬式のときだって花輪の位置が気に入らないと本気で怒った。
だが…。
「姉ちゃんが言うように、感謝知らずの人間は確かに多いね」
きょうだいが大勢いても、土地財産を長男が独り占めできたのは戦前の話だ。
父に続いて母が亡くなったとき、財産分けは平等にしてほしいと、弟や妹たちは要求してきた。
両親の介護は嫁の喜子がひとりで乗り切ったのに、喜子に礼を言うきょうだいは一人もいなかった。
それどころか弟の一人は、喜子がやった介護は完璧とは程遠かったなどと文句を垂れた。
あのとき俺は喜子を庇(かば)ってやれなかった。きょうだいの前で妻を庇うなんて、まるで恋女房みたいで恥ずかしかった。
それに、そんなことをわざわざ口に出さなくても、喜子ならわかってくれていると信じていた。
そういうこともあって、喜子は俺だけじゃなくて松尾家そのものにも嫌気が差したのかもしれない。
「壱郎ちゃんは私よりもっと嫌われとるよ」
「えっ、なんで?」
「壱郎ちゃんは長男だから子供の頃から特別扱いだったし、弟らの学歴や仕事を本人の前でいっつも馬鹿にしとった」
「そんなことないよ。俺はあいつらと違って子供の頃からずっと努力してきたんだ。それに、あいつらにとって俺は自慢の兄貴のはずだよ」
「相変わらず自惚れやさんだねぇ。弟らは威張った上司と話しとるみたいで、酒を飲んでも酔えんて言うとったよ」
絶句していた。
「あんた、喜子さんに対しても同じような態度だったよ。壱郎ちゃんみたいな亭主を持って、喜子さんも、苦労の連続だったかもしれん」
「苦労? 喜子が? いったい何の苦労?」専業主婦が苦労なんてするのか?
金に困っているわけでもないし、一日中家にいることができるんだし、俺みたいに外に出て七人の敵と戦う必要もない。羨ましいくらいだよ」
「あれはいつだったか、喜子さんが同窓会に行こうとした時、壱郎ちゃんが『食事くらい作ってから行け』と怒鳴ったのを目撃したことがあった」
「たったそれくらいのことで…」
「日頃からああいった上下関係があるんだろうなと私は見たけどね」
いつ頃からか喜子は笑わなくなった。注意しても以前とは違い、向こうから謝ってこなくなった。
そのうち喜子は一緒に食事をとらなくなった。
子や孫が来ても、喜子は食事の用意でずっと立ち働いていて、会話に加わろうとさえしなくなっていた。
そのことに気づいてはいたが、同じ墓に入りたくないとまで思い詰めているとは考えもしなかった。
壱郎は、住職に墓じまいの相談をします。
「墓じまいをするのがおつらいなら、そのまま置いておかれたらどうですか」
「でも、そんなことをしたら、子供らに迷惑がかかります」
「子供に迷惑をかけたくないという考えが、昨今は行き過ぎているように思います。
老後や死後に少しだけ子や孫に頼ることが、そんなにいけないことでしょうか」
「私は親に墓守を託されたときは誇りに思いました。迷惑どころか自尊心に繋がったように思います。だが、今の時代はどうでしょうなあ」
「今度じっくり話し合ってみられたらどうでしょう。それで結論が出なければ、しばらくこのままにしておかれるのが良いと思います。墓じまいはいつでもできますから。それに、どっちにしろ…」
「どっちにしろ? 何でしょうか」
「昨今の墓事情を考えますと、墓じまいやら永代供養やら合祀墓などをわざわざ選択しなくとも、日本全国の多くの墓が事実上の永代供養に移行しつつあると思うんです」
「つまりそれは、どの家もそのうち墓守がいなくなる、という意味ですね」
「そうです。公営でも民営でも、管理料を滞納すれば通知が行きます。
墓前と官報に『無縁墳墓等改装公告』が出されて、一年以内に申し出がなければ墓石は撤去されて、骨は合祀墓に移されるんです。
都市部ではすぐに墓所を更地に戻して新規募集をしますが、過疎地では募集したところで応募はありません。
山間部の町では、半数近くが無縁墓になっていると聞いたこともあります。
そういった、墓地の需要がない場所では、無縁墓もそのままです。
つまり、放っておいても、寺院の境内墓地では事実上の永代供養が進行しているんですよ」
帰り道、坂を下りながら、気持ちが楽になっていることに気がついた。
墓じまいをしてもいいし、しなくてもいい。
ご先祖様に申し訳ないと思う必要もない。
子孫に詫びる必要もない。
振り返れば親から褒められたい一心で生きてきたような気がする。
日頃は意識していなかったが、心の片隅では親の期待に応えることぼかり考えてきたのではないか。
結構した後は、嫁というものは舅や姑に気に入られるようにすべきだと考え、そうするように喜子を仕向けてきた。
自分が親から褒められたいがために喜子を犠牲にしてきた一面を、今更だが認めざるを得なかった。
だが、もしも墓じまいをするとなれば…この世のすべての柵(しがらみ)から解き放たれる気がした。
それを想像しただけで、いきなり開放的な気分になった。身体の中を風がひゅうっと吹き抜けたような気分だ。
その風は、喜子が亡くなってからずっと胸に鎮座していた暗くて重いものを吹き飛ばしてくれた。
喜子には申し訳ないことだが。
令和の時代になっても、例え昭和の男が皆いなくなったとしても絶対消えることのない、脈々と受け継がれていく男の中の男尊女卑的な考えを、見事にあぶり出してくれています。
男性の必読書に指定されたらいいのに。
あ、それこそ夏休みの課題図書だな。
おもしろかった。
成瀬…