『777』

(伊坂幸太郎著 角川書店)

 

 

 

スリーセブンて読むんじゃないんですね。

 

 

スロットマシンで、7が3つ出るのをジャックポットと言うんだそうで、それは大当たりのことなのだそうですが、

 

 

この物語の主役と重要な登場人物の、二人の会話です。

 

 

「ある人が言ってたんです。子供のころ、お父さんにスロットマシンのおもちゃを買って貰った話をしてくれて。

 

試しにレバーを引いてみたんですけど、何回やっても、ジャックポットは出なかったみたいで。

 

あまりにも出ないものだから不安になって、お父さんに、『こんなについていなくて、大丈夫かな』と訊いてみたそうです。

 

お父さんと自分の人生が不安になってしまって」

 

 

こんなことってあるのかな。お父さん、僕たちはどうなっちゃうんだろう。

 

大丈夫だよ。こんなところで運を使わなくていいんだから。

 

 

「他人事とは思えないよ。その子の気持ちが分かる」

 

七尾の反応が想像以上に実感のこもったものだったため、紙野結花は少し驚く。

 

「本当ですか?」

 

 

「痛いほどね。で、その話がどうかしたのか」

 

「思い出しただけです。わたしも今まで、大当たりどころか、7が1個も出ないような人生を歩いてきたので」

 

 

ジャックポットが絶対に出ない、壊れたスロットマシンを回し続けているだけだ。

 

 

「俺なんて、スロットマシンを回そうとしたらレバーが壊れる、そういう人生だよ」

 

 

七尾のついてなさは、真莉亜が説明してくれます。

 

 

「君はだいたい、ついてないでしょ。だから、相手にぶつかられて転んだら、ちょうどそこに危ない物でも落ちているんじゃないかなと想像したの」

 

「どういうこと?」

 

「君がタックルを食らって倒れれば、その床には画鋲(がびょう)や釘(くぎ)が落ちていて、ぐさっと刺さる。

 

そういうことになっているでしょ。不運の塊だから。

 

 

泣き面を見せたら蜂が刺しにくる。転べばそこに尖(とが)ったものがある。それが君の運命。

 

だからわたしがそれを見越して、君の近くを探したら、案の定、あったわけ」

 

 

「何があったんだ」

 

「長い針が床に刺さってた。矢なのかな」

 

 

「ああ、さっき上から狙われた時のやつだ」

 

 

 

紙野結花の不幸は、記憶力がいいことです。

 

「どんなこともずっと、覚えているんです。何でもかんでも。見たものも聞いたことも。

 

ぼんやり眺めている時はまだマシなんですけど、一回意識すると」

 

「記憶に刻まれちゃうわけ?」

 

紙野結花は強くうなずいた。

 

 

「友達とか一人もいませんでした。学校で、必要最低限の会話はありましたけど、学校以外の場所で誰かと会ったり、遊んだりすることもなかったですし」

 

「大学生の時、いろいろ考えたんです。どうやって生きていこう、って。自分に向いている仕事は何なのか、って」

 

 

「弁護士とか資格を持つ仕事はどうなの?記憶力がいいなら、法律を覚えるのも得意だろうし」

 

「それは少し思ったんです」

 

法学部に入学しておくべきだったか、と後悔はした。それに限らず、資格試験にはむいているだろうから、何らかの専門家を目指すことも考えた。

 

 

「ただ、言い方は悪いですが、お医者さんや弁護士さんはみんな、困っている人を相手にするじゃないですか」

 

「まあ、困ってる人を助けてあげるんだろうね」

 

「その困った人たちの話を、ずっと記憶してるとなったら、たぶん耐えられない気がするんです」

 

「分かるかも」

 

 

「考えた末に閃(ひらめ)いたんです。お菓子作りとかはどうだろう、って」

 

「急に?」

 

「料理のレシピ、分量とか手順とか、ああいったものはいくらでも覚えられますし、センスがあるかどうかは分からないですけど、言われた通りにやることはできる気がしたんです。しかも」

 

「食べた人が喜んでくれる」

 

紙野結花は大きくうなずいている。

 

 

 

 

 

 

この本は、ホテルの中で業者に狙われて、いかに逃げるかというハラハラドキドキの連続です。

 

 

伊坂さんだからピンチになっても絶対逆転する。大丈夫。とは思うんだけど、ずーっと血圧上がりっぱなしでまんまと騙されて、そしてやっぱりとっても楽しかったです。

 

 

 

 

 

ところでこの前、SL列車に乗ってきました。

 

新潟と福島を結ぶ磐越西線(ばんえつさいせん)、3時間半の旅です。

 

 

降りる頃には窓枠にはうっすらと煤(すす)が。鼻をかめば真っ黒だし、もちろんエアコンの効いた快適な車内で、窓を開けるなんてことしてないのにとびっくりでした。

 

 

でも何がよかったって、車窓から見る町の人たちが、待ち構えている撮り鉄さんも踏切でたまたま遭遇して停車している車内からも、みんな手を振ってくれるんです。

 

 

私も負けないように歯を見せる全力笑顔で両手振りまくりました。

 

 

確か識子さんが言ってたと思うのですが、手を振るって、あのやんごとなき皇室の方々のお手振りもそうですが、神主さんが幣(ぬさ)を振るのと同じ意味で、相手の悪いものを落とすとか健康や安全を祈念するとかの意味があるってことらしいので、千切れるかってくらいに振りました。

 

 

沿線のみなさんなんて洗濯物の心配もあるでしょうに、みんな笑顔で本当に幸せをいただきました。

 

 

 

あともうひとつ、温泉に泊まって次の日在来線を待っている時には、神を見ました。

 

 

小さな子供二人とお母さんが同じ列車を待っていたのですが、お母さんと一人(妹ちゃん)はホームの椅子に座っています。

 

もう一人のお兄ちゃんは、一番に乗り込めるようにホームに立って待っていました。

 

 

でも残念。立ち位置が列車の開く扉の位置ではありません。

 

ちょっとずれて列ができ始めていました。

 

 

そこへお母さんと妹ちゃんが来て、お兄ちゃんが違うとこに立っていたことが分かります。

 

お母さんから立っている場所にはドアが来ないことを聞くと、男の子は固まってしまいました。

 

日の当たるホームで頑張って立ってたんだもんね。

 

 

すると、正しい位置に並んでいた先頭の男性がゆっくりと、その親子の後ろの方にちょっと動いたのです。

 

手元のスマホを見ながらあくまでも何気なく、です。

 

 

親子が先頭の列になりました。あまりにもさりげなくて、気づかない人もいたんじゃないかな。

 

 

まさに神を見た瞬間でした。

 

 

いい旅だったなぁ~

 

 

 

 

奈良に愛知に磐越。今年は旅の年になってるみたいだから、きっとまたどっかに行ける気がする。

 

 

次はどこかな~クローバー