『一線の湖』
(砥上裕將著 講談社)
『線は僕を描く』の続編です。
むしろ上下巻といったほうがいい位です。あれがあってのこれ。
これがなければ終わらないって感じです。
湖山先生の弟子、湖栖(こせい)さんは、緻密な画を描きます。
どんなプロでも狙った場所に狙った精度で調墨を行うことは不可能なのに、彼は何度描いても同じ精度で筆の中の墨と水分の量を調節できた。
筆圧の精度も同じだった。
湖栖さんは言います。
「湖峰先生や湖山先生の湖の号を名乗っても、私は彼らには遠く及びませんでした。
私はただ、緻密に描けるだけ。彼らは天地を自在に生み出せるのです」
心でものを見、世界や水墨の持っている素直な美しさと人生を重ねることができる姿勢…。
それを学ぶことによってはじめて、習得し研鑽してきた画技を生かすことができたのです。
どんなに素晴らしい技術があっても、それを生かす心がなければ意味がない。
器そのものが大切なわけではない。器に何を注ぐかが大切なことなのです。
青山霜介も湖栖さんも、湖山先生から「完璧なものに用はない」と言われ、用とは何かを考えていました。
「湖栖さんから頂いたハガキを見たとき、すぐに意味は分からなかったけれど、気持ちが少しだけ軽くなったことを覚えています。
自分の問題から少しだけ視線を逸らせたことを…」
「絵とは、本来そういうものだと思います。
ほんの少し線を引き、心を傾ければ、深く大きく答えてくれる。
そして、それは時に言葉よりも大きく強く心に届く」
「そうか、それが…」
「そうです。それが『用』です。絵の用だと思います。
心を傾ける隙間が絵には必要なのだと、ここに来て思い至りました。少なくとも水墨画はそうです。
まさに、『完璧なものに用はない』のです。あなたにはそもそも見えていたはずの世界です」
長時間の訓練、精密で複雑な動作、自分の内側の動きを無視した努力を続けても、どこかで行き詰ってしまうのだろう。
そもそも自らの中の『伸びしろ』を『伸ばしきってしまった』後には、どれだけ叩いても伸びることはない。
ただ自分を痛め、歪な形にかえてしまうだけだ。
重要なのは『伸びしろ』そのものを伸ばすことだ。心の内側に余白が必要なのだ。
そのために、描かない。そのために、筆を置く。
僕はそのことに気づけなかった。筆を置き、待ち、手ではなく心に立ち現れるものを見る。手が遅いうちには簡単にできていたことが、手が早まると忘れてしまう。
完璧なものに用はない。
僕が描くものは、どこまでも不完全で拙い生の形だ。それは、描くのではなく、生まれるのだ。そのときを待たなければならない。
白の中に、突然、見えないはずのものが生まれ、それは像になり、意志になり、完璧から可能性への試みに変わる。
考えてみれば、ひどく単純なことだ。
生きるとは、やってみる、ことなのだ。また、子どもたちの生き生きとした様子が目の中に浮かんでくる。僕の中に彼らが生きている。
そして湖山先生は引退を決めます。
「私がこうして去れるのは君のおかげだよ。君に出会ってはじめて、そう思えた。
去ることをいとわず進めるのは、未来を信じているからだ。
君が、今日と明日を連れてきてくれたんだ。そして、皆を結んだ」
水墨画の描写も素晴らしいし、何より哲学がちりばめられています。
これでもか、というくらいで、砥上さんて何者なのかと思ってしまいます。
それにしても、文中に出てくるいくつもの水墨画。表紙や裏表紙に何枚かは絵が挿入されていますが、できれば出てくるたびにQRコードをつけてていただきたい。想像した絵はきっと、砥上さんが伝えたい絵と違ってる。間違いない。
そして確か『線は僕を描く』は横浜流星さんだったと思うけど、続編の上映も決定ですね。
そんなこんなでこのGW。前半で念願の愛知に行ってきました。
願いは口に出すと叶う。
お正月に奈良に行って、4月には愛知へ。次々叶っちゃって、死ぬのか?
瀬戸市のおじさんのお見舞いに母と行ったわけですが、名古屋駅での乗り換えで疲れ果て、名古屋って大きいんだな。。
いとこに藤井総太さんちに連れてってと言ったけど、近づけないようになってるみたいなこと言ってました。生活しているわけだから、そっとしてあげないととも言ってたな。市民みんなで守ってるんだな。
そしておじさんが入院してるから部屋空いてるからと、おばさんの言葉に甘えて2泊させてもらったんだけど、人間、優しさはしてもらって初めて身につくなんだなとよくわかりました。
「もっと食べなさい」「いいからそのまま置いておきなさい」「これ使いなさい」
命令される幸せ。上げ膳据え膳でのんびりさせてもらって、がっつり太って帰ってきました。
これから私も人に優しくできそうです。
ありがとう、おばちゃん、いとこくん。
おじさん、早く良くなってねー