田舎で育った人間にとって東京は大都会だ。

大阪は自分が育った西日本の田舎の延長線上にあるけれど、東京は未知の世界、異国。
首都圏に住んでいる人がニューヨークに住む感覚に近いのでは、と思う。
TVの刑事ドラマやニュースで見る世界。
日々、殺人事件が発生する犯罪の巣窟(注)。

そんな東京に飛び込んだ田舎モノの私が経験した、かれこれ30年以上も昔のお話。

(注)刑事ドラマやニュースしか情報ソースがなかったため勝手にそう思い込んでいただけ。

過去の記事

  僕の新橋LIFE(その11)


サラリーマンへの道(その6)


約1年の海外出張生活。
1年の半分はシンガポール、残りが日本。
そんな生活を約1年続けていた。
生まれて初めての海外。
言葉の問題、文化の違い、仕事そのものの問題、人間関係。
辛いこともたくさんあった。
だが、それを上回るくらいの刺激と貴重な体験をさせてもらった。

今度の仕事は日本が拠点。
日本から台湾への輸出ビジネス。
その頃、台湾ではパソコンの普及に伴って、台湾のOEMメーカーがたくさん出現していた。


OEMメーカーと言うのは​自社ではない​ブランドの​製品を​製造する​メーカーのことを​指す。

簡単に言うと世界中のパソコンメーカーの下請工場が台湾に集結していたのだ。

そこにパソコンの部品を輸出していた。

台湾の会社との決済条件はL/Cといって、台湾の銀行に支払を保証して貰う方式。

因みにL/Cと言うのは、Letter Of Creditの略で日本語に訳すと信用状と言う。



しかし、たとえ下請工場であっても、世界中から注文が殺到すると、徐々に力を持ってくる。

力を持ってくると、交渉力を持つ。

交渉力は価格や決済条件に表れやすい。

結果、手間もコストもかかるL/Cから信用取引となる電信送金へ変わっていった。

また、短納期への要求も大きくなり、それを実現するために台湾へ出張することになった。 

税関や税務上の問題を解決するためだ。

台北支店のローカルスタッフで、管理のキーマンである黄さんと、ベンダーの日本企業の台湾現地法人スタッフと打合せを行った。

当たり前のことだが、現地(台湾)のことは現地で働く人が一番詳しい。

情報量も多いし、自分事としての意識が高い。

凄く勉強になる。

自分はと言えば、初めてのこと、知らないことだらけで戸惑う事も多かったが、これまでの経験が役に立った。

神経も脳味噌もフル回転させながら、何とか今回の課題も乗り切った。



初めての台湾。

同じチャイニーズ系とはいえ、シンガポールとは街並みが全く違う。

より中国的な感じがする。

と言っても、中国本土へは行ったことはない。

自分が持っている中国のイメージに近い気がするというだけだ。

訪れたのは台北。

台湾で一番大きな街。

繁華街は東西南北が整然と区画整理されて、どこも同じに見える。

これだと、独りにされると100%、迷子になる。


現地駐在員が台北の街を案内してくれた。

お昼は現地の人で賑わうお店。

その後、ぶらっと街中を散歩。

すると、突然、声を掛けられた。

因みにシンガポールに居た時もよく道を聞かれた。どうも、自分は日本人というより現地人に見えるらしい。

何かと思ったら、蛇の血の入った強壮剤を飲めと言っている。

怪しいとは思ったものの、何事も経験と思い、1杯飲んでみた。


(今夜は大変なことになるぞ‥)


と思ったが、その後、身体に変化が訪れることもなく、また、その機会を活かせるようなシチュエーションも訪れなかった。

ホッとしたような、ガッカリしたような微妙な気持ち。



休日。駐在員がせっかくだから、ということで、故宮博物館に連れて行ってくれた。

台湾に来る前に「ワイルド・スワン」という本を読んでいた。

「文化大革命」という言葉は聞いたことがあったものの、この本を読むまでそれが何を意味するかはよく知らなかった。

「文化」の言葉からイメージされるものとは真逆の事件。

故宮博物館で保管されている清朝の美術品等の収蔵品は様々な戦火や、この文化大革命を逃れて、台湾にまでやって来たのだそうだ。

人にも国にも歴史があるのだなぁ、とあらためて感じる。

何も知らなければ「ふ〜ん」で終わるところがを歴史を少し知るだけで、思い入れが全く変わってくる。

因みに、台湾の国際空港は桃園国際空港であるが、以前は台湾の初代総統である蔣介石の名前を取って、CKS Airportと呼ばれていた。



翌日が台北の新竹サイエンスパーク。
今では自社ブランドのパソコンも販売している企業も当時は日本やアメリカのパソコンメーカーの下請、つまり、黒子企業だった。
そんな台湾企業の何社かを訪問した。
その中でも大手のメーカーを訪れた時のこと。
休憩時間なのだろう、若い従業員がたくさん出て来た。それもかなり若い。
高校生?いや、マジマジと観察した訳ではないが、恐らく中学生もしくはそれ以下の年代の子もいたのではないかと思う。
当時は、近くにアルバイト出来る場所があって良かったね、くらいにしか思わなかった。
しかし、後に仕事でCSR(Corporate Social Responsibility=企業の社会的責任)業務に携わるようになると、それが何を意味していたのかがわかるようになった。

企業の社会的責任には様々な責務や禁止事項があるが、その中の1つに「児童労働禁止」という項目があることを知った。
児童労働というのは発展途上国で子供に鞭を振り回しながら、奴隷のように働かせるというイメージがあった。
一方で自分が見た児童労働は、キレイな工場で、ハッキリとは覚えていないものの、企業の制服さえ着ていた気がする。
自分が思っているイメージとは違うが、

(このことだったんだ‥)

と思った。

ある時期から、世の中は企業の社会的責任とかコンプライアンスが、声高に叫ばれるようになった。
たしか、誰でも知ってるような米国の大手企業でも児童労働が問題になっていたと思う。

因みに、「児童労働禁止」は監査レベルになると、密閉された部屋を一部屋一部屋チェックされふ事になる。
実際、そのような監査を受けた。
子供たちが密室に閉じ込められていないかを確認するためだ。
自分が見た児童労働は少し違っていたのかもしれないが、そのような劣悪な環境で子供たちを働かせ、搾取している企業もあるということだ。


児童労働を止めさせることは良いことだ。
なぜならば、子供達が今やるべきことは労働ではなく教育を受けることだからだ。
しかし、もし、そうであれば、児童労働を止めさせるだけでなく、その子供たちに学ぶ機会を提供するのもまた、企業もしくは社会全体の責任ではないだろうか?
教育にもお金が掛かる。

昔の日本がそうであったように、教育よりも目の前の生活を優先せざるを得ないから、子供たちは働くのだ。

台湾の大きな工場で遭った笑顔の子供たちを思い出しながら、そう思った。

(つづく)