定年退職。

 

ウィキペディアによると、「定年」は以下のように説明されている。

 


定年・停年(ていねん、Retirement age)は、企業や公務に勤める正規雇用者で、ある一定の年齢に達したら仕事を退職・退官する場合のその年齢のこと。またそうした仕組みによって雇用関係が終了し、退職・退官すること(定年退職)。労働者が一定の年齢(定年年齢)に達すると自動的に雇用関係が終了する制度を「定年制」という。

 

この定年制、全ての国が同じ仕組みというわけではなく、米国では、The Age Discrimination in Employment Actという法律により、使用者は、雇い入れや労働条件などに関して、年齢を理由に差別することを禁止しているため、そもそも、定年という制度がないのだそうだ。

 

日本でも法の下の平等が憲法第14条で以下の通り保証されている。



「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、 信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係に おいて、差別されない」


 「年齢のこと、書いてないじやーん!」

とか、そういうことではない。


このような考え方があるのに、なぜ、今まで、日本では定年という制度が何の疑問ももたれずに存続し続けたのか?


ひと昔前は「定年(退職)」という響きにはどこか、「ご苦労さま」というアガリ的なニュアンスが含まれており、盤石な退職金と年金によって「悠々自適」な老後生活として社会的に許容されたシステムだったような気がする。



一方、現在はどうか?

「悠々自適」な老後生活を支えるはずの退職金は目減りし、年金もかなり怪しい。

確定拠出年金制度という、わかるようなわからない制度を導入し、更に公に「受給開始を遅らさせるとお得なのよ」、みたいな怪しげなアピールまでしてくる始末だ。


恐らく全然お金が足らないから、最低限のことしか出来ません、年金払わなくて済むなら払いたくない、なので、小手先のテクニックにダマされる人は騙されて下さい、というのが本音なのでは?と感じる。

 


つまり、現在では、社会から許容されるための条件がなくなってしまい、振出しに戻ってしまったのではないだろうか?

振出しに戻ったのだから、法の下の平等という日本国憲法の趣旨に照らし合わせてあらためて検証しなければならないのではないだろうか?


もちろん、労働市場においても新陳代謝が必要だし、年寄りが若者の仕事を、ひいては若者の生活を奪うようなことがあってはならない。

それはわかる。


一体、現実では何が起きているのだろうか?

日本は人口減少に伴い、全体として労働人口が減っていることは間違いない。

と同時に人口ピラミッドの構成がいびつな逆三角となり、年金受給者が年金制度を支えるべき若い労働者より多くなっているのも事実だろう。



それを解決するために、年金受給開始を遅らせるための条件として、定年年齢幅のバッファ調整が行われているように思う。

これには企業側の思惑も見え隠れしており、労働力のクオリティを下げずにコストを下げるという意図も感じたりする。

但し、モチベーションの側面は無視されていると思うが‥。



ここで問題なのが、これらの対策が全て経済合理性視点のみで、社会的合理性及び社会的コンセンサスを伴っていないという点だ。


何でもアメリカの真似をする必要はないが、アメリカの良い点や、そもそも既に日本に存在する憲法の法の下の平等に関する考え方に照らし合わせて、社会システムとしての定年制度の在り方をあらためて考え直す時期なのではないだろうかと思う。