県境で医療を続けるということ
「僻地だから見逃していい」は、決してない。
私はいま、岐阜県と長野県の県境にある病院や診療所を数か所移動しながら、地域医療に携わっています。
山あいの道を越え、町から町へ、診療の場を移していく日々です。都市部の大きな病院と比べれば、ここでできることには限りがあります。たしかに、僻地の診療所で大きな手術をすることはできません。高度な検査機器がすぐ近くにそろっているわけでもありません。
それでも私は、どんな場所でも医療は等しくあるべきだと思っています。
ここで言う「等しい」とは、すべての場所に同じ設備がある、という意味ではありません。どの地域に暮らす人であっても、ひとつの症状を軽く見られないこと。
大きな病気につながる前に、誰かが気づき、支え、食い止め、次の見立てを立てること。必要な処置を行い、必要な専門医療へつなぐこと。そうした医療のまなざしは、都市でも山間部でも変わってはいけない、という意味です。
あるクリーニング店主の異変
先日、印象に残る患者さんがいました。
その方は、長く地域でクリーニング店を営んできた店主でした。話を聞いていくと、長年にわたり、ドライクリーニングに使う液剤を素手で扱ってきたことがわかりました。そして、肺と爪に異常が出てきていました。
もちろん、診察の場で「この症状の原因はこれだ」と短絡的に決めつけることはできません。肺の異常にも、爪の変化にも、さまざまな鑑別があります。年齢、生活歴、喫煙歴、既往歴、薬剤、感染症、自己免疫疾患、悪性疾患など、考えるべきことは多くあります。
しかし同時に、職業歴を聞かなければ見えてこない病気があります。
有機溶剤は、一般に揮発性が高く、呼吸を通じて体内に入りやすいだけでなく、脂に溶けやすい性質から皮膚からも吸収されうるとされています。また、溶剤への曝露による健康影響は、物質の種類、濃度、曝露期間、吸入・皮膚接触などの侵入経路によって変わります。ドライクリーニングで用いられてきたパークロロエチレン、すなわちテトラクロロエチレンについても、曝露を減らすことの重要性が公的機関から示されています。
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診療で見逃したくない情報 |
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どのような仕事をしてきたか |
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どの薬剤・液剤・染料に触れてきたか |
皮膚、呼吸器、神経、肝腎機能などへの影響を考える手がかりになる |
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手袋や換気などの防護があったか |
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症状がいつから、どのように出てきたか |
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この患者さんを前にして、私は以前の経験を思い出しました。
大学病院にいたころ、美容師として長年働き、カラー剤などの染料を扱ってきた方を診たことがあります。その方は、最終的に膠原病の診断と治療へつながりました。もちろん、染料を扱っていたことだけで膠原病を説明できるわけではありません。けれど、日々の仕事の中で何に触れ、どのような環境に身を置いてきたのかを丁寧にたどることが、診断の扉を開くことがあります。
病気は、検査値だけで始まるわけではありません。
その人の暮らし、仕事、手の使い方、吸ってきた空気、触れてきたもの。そうした生活の履歴の中に、病気の輪郭が浮かび上がることがあります。
地域だからこそ、見えるものがある
僻地医療というと、「できないこと」が語られがちです。
専門医が少ない。検査機器が限られている。搬送に時間がかかる。たしかに、それは現実です。地域医療に携わっていると、都市部ならすぐにできる検査や処置が、ここでは簡単ではないという場面に何度も出会います。
しかし一方で、地域だからこそ見えるものもあります。
患者さんがどんな仕事をしてきたのか、どんな家で暮らし、どんな山道を通り、どんな家族や地域の中で生活しているのか。顔の見える距離で医療をしていると、病気が単なる臓器の異常ではなく、生活の中で起きている出来事として見えてきます。
大病院では、検査や専門性の強さがあります。地域には、生活に近いという強さがあります。
私は、その両方が医療には必要だと思っています。
「ここでは仕方ない」で終わらせない
僻地だから、見逃していい。
地域だから、これくらいで仕方ない。
私は、そうは思いません。
むしろ地域だからこそ、最初に気づく医療者の責任は大きいと感じています。小さな爪の変化、長く続く咳、息切れ、皮膚の荒れ、倦怠感、関節痛。患者さん自身が「年のせい」「仕事柄しょうがない」と思っていることの中に、病気の始まりが隠れていることがあります。
もちろん、すべての症状が大きな病気につながるわけではありません。必要以上に不安をあおることも、医療として正しくありません。しかし、見立てを立てることはできます。経過を見るべきもの、今すぐ調べるべきもの、専門医につなぐべきものを分けることはできます。処置を行い、生活上の注意を伝え、必要な支援へ橋をかけることもできます。
僻地医療とは、「何もできない医療」ではありません。大きな病気になる前に気づき、支え、食い止め、次につなぐ医療です。
この患者さんの診療でも、私はそのことを改めて感じました。
目の前にある肺と爪の異常を、単なる所見として見るのではなく、その人が何十年も続けてきた仕事と結びつけて考える。大学病院で経験した別の患者さんの記憶を、いま目の前の地域の患者さんに活かす。専門医療の知識と、地域での観察をつなぐ。
それが、私にできる医療なのだと思います。
医療は、場所で手を抜かない
岐阜県と長野県の県境で医療をしていると、医療資源の偏りを肌で感じます。
それでも、患者さんの症状の重みは、都市部でも山間部でも変わりません。病気は住所を選びません。苦しさも、不安も、生活を守りたいという願いも、場所によって軽くなることはありません。
だからこそ、私はどんな場面でも全力で治療にあたりたいと思っています。
大きな手術ができなくても、できる医療があります。大きな病院ではなくても、見逃してはいけないサインがあります。専門設備が十分でなくても、問診と診察と経験を総動員して、次に進む道筋を考えることはできます。
地域医療は、決して「縮小版の医療」ではありません。
それは、その土地で生きる人の生活に最も近いところから、病気の兆しを拾い上げる医療です。患者さんの仕事の歴史、手のひらに残る跡、爪の変化、息づかい、表情。そうした小さな情報を見逃さず、必要な医療へつなげていく営みです。
私はこれからも、県境を移動しながら診療を続けていきます。
山あいの小さな診察室であっても、そこにいる患者さんにとっては、そこが医療の入口です。その入口で、症状を軽く扱わないこと。生活の背景を丁寧に聞くこと。見立てを立て、必要な支援につなぐこと。
どんな場所でも、医療は等しくあるべきです。
そしてその「等しさ」は、目の前の一人を決して見逃さないという姿勢から始まるのだと思います。