インスタで家事や掃除、インテリアなど【暮らすこと】を工夫して楽しんでいる方の投稿を見るのがとても好きだったりします。


理由はみなさんがものすごく楽しんでるからニコニコ

見てるこっちまで楽しくなってきて、やってみたいな〜という気さえ湧いてくるほど。

なのですがここで働くのが私のメンタルブロック無気力


「でもなー…ズボラだから続かないんだよなあ。そもそもがめんどくさがりだし違うよなあ」


そんなことを考えて、ふと、「いつからそうなったんだろ?」と。



小さい頃の私は時間が惜しいとばかりに動き回っていて、ずぼらとかめんどくさいとかそういうワードと縁がなかったはず。。

まあ子供だから元気があったのもある…?

いやいや、私は楽しいことには抗えない性格……




とまできて「ああ」と。

楽しむことに罪悪感を感じてるんだな、と気づきました。



これは色々理由があるんですが、ざっくりいうと【生きることも暮らすこともやりたくなくても頑張って必死にやるべきもので、楽しんでヘラヘラやるものじゃない】みたいな考えを父が持ってたんですね。

そしてそれをひたすら刷り込まれてきているからではと。


父のこの発想は多分、父の幼少期の経験や祖父母(父の両親)への想いから来ているものだと思います。


父は思い返せばとても感受性の強い人だったので、本人たちや周囲の話から彼が生まれる以前からの祖父母の苦労(戦争を経験している世代なので…)を感じ取っていて、彼自身がそういう考えで自分を律して生きるべきと思っていたんだろうと思います。


私にとってのしんどい環境として親の離婚や事業の失敗による経済的困難や介護などなどがありましたが、父は決まって冒頭の精神論でもって私を鼓舞しようとしていました。

それが染み付いてるんだろうなって。



しかし残念ながら私は甘っちょろい人間ですよだれ

こうなった理由はきっと、そうして暴言暴力を吐きつつも父は根っこの部分で私にゲロ甘だったからだと思います昇天

結果正しく根性ある人間に成長せず、悪い形で反動が出ているなと気づきました。

結局今の私って



【頑張る根性もなければ楽しむ余裕もなく行動が後手に回りがち】



って感じですよだれ



ずっと父のやり方がベストなのだと思って生きてきました。

そしてそれができない私は欠陥人間だと。

楽しんで何かをやるなんて発想自体がその証拠だと、そう思ってました。



でも今思うんです、大事なのはその時のベストを尽くして結果出すことだよなって。

方法とかスタンスとかは別になんでもいいというか、その時のベストでいい。

いや、ベターでもいい。

楽しいって言葉が甘く聞こえるのなら、心が自由な状態でいることって言い換えてもいい

とにかく心が自由でいられれば動くことができるし、まずそれが大事だって。



父にとっては歯を食いしばって頑張ることが美徳で、力を発揮できる方法だったのだと思います。

それはそれで大事だと思います

でも残念ながら私は違うみたい。

楽しめばいい!ってことなのですが、安直に父の逆を行くってことではなく、私は私が一番結果を出せるあり方を模索すべきだなって感じています。

もう罪悪感、感じてる場合じゃないなって



最近本当に、父との関係を冷静に評価できるようになってきてうれしいです。

これまでは癒着しすぎててフラットな目で見れなかったので…

ようやく精神的自立へのスタートラインに立てているような気がします。