今から約20年前、私の人生を揺るがす出来事がありました。
卵巣がんです。

病気が判明する約10ヶ月前。

何か体重が増えて来たなと、腹筋背筋をしようと思い、背筋でうつ伏せになった時、お腹に何かゴロッとした感覚を覚えました。一瞬焦ったものの、これは便秘だなということにして、放置しました。

ところが、朝は腰が痛くて目が覚める。動けば治るを繰り返し、30分から1時間に一度はトイレに通うほどの頻尿になっていく。これは、婦人科かもと頭をよぎる。それでも、婦人科受診の壁は高く、そのままにしていました。職場の健診の時期となり、意を決して、婦人ガン検診に申し込みました。

ここで、第一の救いが来ます。

私は心が決まると即行動に移さないと落ち着かなくなるため、何も考えず、検診に申し込むと、「これは検診車だから、病院の健診の方がいいかもよ。後でまた、申し込み時期くるから」と担当者から教えてもらい、病院で受ける婦人ガン検診を申し込みました。

実は婦人ガン検診といえども、検診車での検診は子宮頸がんの検査のみ。これでは、私のがんは見つからなかった。

病院の検診では、問診票もあり、必要ならば追加の検査もできるとの事。

私は、お腹にゴロッとしたものがありますと記入した記憶があります。エコーも追加されて、実際の検査を受けると、これは手術だねとすぐ言われ、動揺していると、大きさもかなり大きくて、癒着してるかどうかエコーだけではわからないとソフトボール大はあると言われました。その後、血液検査やらMRIやらと後日検査することに。

MRI検査は私が病気であると自覚する事になったのですが、どうしても呼吸でお腹が上下に動くため、息を吐き切って、ベルトを締めるを2、3回繰り返したと思います。そして、検査へ。もう辛くて辛くて、大抵は我慢する私も限界で、初めてブザーを押しました。検査技師さんから「辛いかい?もう少しだから頑張れる?」と聞かれたので、頑張りました。検査が終わり、ドームから出て来た私は顔面蒼白だったらしく、看護師さんが顔真っ青と。血圧測ったら上が60だったかな。記憶が曖昧だけども。これは、ダメだと車椅子に乗せられ、血圧が元に戻るまで、休むことになりました。腫瘍が中心動脈?静脈?を圧迫してたかもねと。とりあえず、検査が終わり、その日は終了。

後日、病院での説明では、腫瘍マーカーとMRIからチョコレート嚢胞ではないかと。悪いとこだけ取る手術かなと言いながら、何となくはっきりしない説明。実は地元から離れた病院だったので、親元で手術を受けたい旨伝えたところ、資料の準備をしてくれました。(ここでオペ受けてたら危なかったなと😅)

地元の病院で婦人科の腕のいい先生はいないかと情報を集め、たまたま知り合いの看護師さんがいた病院へ。ここが第二の救い。

資料を持って受診すると、すぐさま先生は、これは早い方が良いと。そして、その場で、「29歳女性、卵巣がんの疑いなんだけど、手術室いつ空いてる?」とすぐ予約。その場で、私がんなの?と衝撃を受けたことを思い出します。卵巣は2つ失う覚悟で手術に臨んでくださいと言われ、かなり動揺しました。だって、これから結婚の可能性あるのにと。

結局、その約3週間後には手術を受けました。

気になると調べずにはいられない私。

軽く基礎知識を入れて、手術に臨みました。

卵巣は腹膜に覆われた、外とは繋がっていない臓器なので、お腹を開けるまで、ガンかどうかは確定できません。そこで、術中に迅速病理を行い、その結果により術式を、確定させていきます。

私の場合は、がんの顔つきと言われる病変がこれは確定だなと言われる悪い子だったようですが、迅速病理では、確定できなかったようです。幸い卵巣は一つ残り、麻酔から目を覚ます時の先生の呼びかけが「卵巣一つ残したよ」でした。これを聞いた私は、じゃあ初期のガンだなと思い、またすぐ眠ってしまいました。

結果取り出した卵巣は1キロ越えの代物で、約900mlの液と卵巣は約200gにもなっていました。

術後の体重測定で見事に元の体重に戻っていた私。

その後、境界悪性と診断され、一対と言われる卵巣は片方にあるともう片方も危ない、まだまだ若いので残した卵巣のために抗がん剤を3回やりましょうということになりました。

ところがある日、先生は私を探していた様子で、また今度お父さんお母さん呼べる?と言われて、え?どういう事?と思っていたら、〇〇さんなら先に話聞いても大丈夫そうだから、先に話するかい?と言われて、お話を聞きました。

通常の病理検査では境界悪性と診断したものの、気になったので、さらに細かく検査してもらったら、腺がんによく似た細胞が見つかったから、楽観視出来なくなったので、通常の治療に切り替えて、再度お腹を開くと。

抗がん剤伸びても良いけど、またお腹開くのは嫌だとその時強く思った私。

親はその話を聞き、ショックを受けているのが分かったので、勤めて明るく振舞いました。

当然周りにも、ガン友はおり、みんな普通に治療受けてるのだからと、まあ何とかなるかとショックを打ち消すように思った記憶があります。

抗がん剤は髪の毛が抜けるタイプのものを使用したので、カツラも被りました。体毛全てなくなるので、かつら被ったところで違和感なんですけどね。

病院のお風呂なんて、マネキン風呂だとか言いながら、入りに行ってたっけ。

それなりに抗がん剤は苦しく、かなりやられました。私はそんなに治療が長引かないだろうとの予想で、IVHという、毎回胸の上部を少し切開して、直接中心静脈に管を入れる点滴のための処置を抗がん剤の度に行いました。これ、すごい嫌だった。

何とか6回1クール終え、再度、治療を続けるかどうかの試験開腹を行いました。(今はやってるのだろうか、試験開腹)

ここで、私は救う方に転じます。

同時期に同じ卵巣がんの同年齢のお友達は、試験開腹は受けないつもりだったようで、私が受けるんだったら、受けようかなと。私は病理もクリアして、経過観察に移行出来たのですが、彼女は異形成の病変が見つかりました。よって、彼女はその後も治療を続けることになりました。でも、その彼女も今は元気です。


この病気をすると、病院内ではみんな病気なので、落ち込みも少ないし、それが当たり前。あっけらかんとしている人も多々。でも、外に出ると健常者の世界。このギャップが何とも。

ガンって、言わなかったら、周りの人は気づかないもので、ちゃんと意思表示しないと、仕事では無理してしまうことになる。私はしっかり伝えた上で、お休みもしましたし、復帰もしました。


当時は、入院を合宿と呼び、辛いながらも病室の方とは良好に過ごしていました。病気が病気なので、天に旅立つガン友も居ました。


また、産科を通って婦人科の病棟に行くため、私は気にするタイプではないとはいえ、結婚前の婦人ガン患者にとっては、良くないよなと思った記憶があります。その数年後、そこは解消されていました。


卵巣がんはサイレントキラーと呼ばれ、気づいた時には…なんて言われるタイプのガンだったので、よくあんな大きくなって初期だったなと思います。

しかも、大きな腫瘍を携えて、運動しまくってました。バドミントンの試合に出たりなんかしちゃって。よく卵巣捻転起こさなかったと思います。そのおかげで、癒着がとても軽く、手術時間も短くすみました。


今となっては、このガンから学ぶ事があったのだと理解できます。


・1人で生きていない事。

・脈々と繋がれたご先祖様がいたから、今ここにいる事。

・自分を責めすぎた事。

(自分を責めすぎると癌になりやすい)

・自分の女性性の受け入れができていなかった事。(これは性別ではなく、誰しも男性性と女性性を持ち合わせていますが、その女性性の認識に問題があったという事です)→当然、母との葛藤を抱えていました。(子宮や卵巣に問題がある場合、母親との関係性を無視しない方が良いです)

などなど。


もう、20年以上も前の話です。

今は超元気👍🏻

EUROPEを聴いていなかった空白期間の一つの出来事です。


ガン友と大笑いした話を一つ。

その方、癌になってから水虫になったらしく、あなた、ガンですよと言われるより、水虫ですよと言われた方がショックだったと。みんな、口を揃えてわかるーって言ってました。水虫もしつこいよね。しつこさ、ガンにも負けてないよね。(爆笑)


そして、短期間ですが闘病経験をして今思う事。

全ては、病は気から。

加えて、今の医療制度にも疑問。

当時、がんなのに抗がん剤を受けるには健康じゃなくちゃいけないと強く感じていた。なぜなら、アレルギーがあったら薬が使えない。健康な部分もやっつけられるから、どんどん体自体が弱っていく。

骨髄抑制も起こるので、免疫が下がる。

昔は効いてる証拠なんて言ってたけれど、受けない方が健康だったのではないかとさえ感じる。

いまだに抗がん剤受けてから、出た症状が疲れると現れる。微々たるものですがね。これも人によります。

ガンになったら抗がん剤、放射線などと刷り込まれてるから、治療しないと不安になる。その気持ち、痛いほどよくわかる。


でも、

薬も利益を生むことも忘れてはならない。

製薬会社が患者のためにと口先で言っていても、そこにはお金が絡むことも忘れてはならないと思います。それは病院も一緒です。

色々、今の社会に思うところはあるけれど。


個人の自由選択意思があるので、参考程度に。


あはは、今回、記事が長いわ😅


誰かの何かの参考になれば幸いです。