人生と体重の関係 | 如何なる時でも何かのオタクLife

如何なる時でも何かのオタクLife

偶像崇拝しがち、コスメとお茶好きアラサーオタク気質のお腐れ主婦です。自分の事、日々のこと、おでかけの事などを書いています。
食べ物の事も多めです!
フォローありがとうございます




大人になってからの私はずっと、所謂標準体型で過ごしている。161センチ、53〜4.kg。

中学時代は運動部のおかげでどれだけ高カロリーな食事を食べても太らず、筋肉質だった。
しかし当時は自分は太っていると思っていた。今からすれば毎日朝晩の運動をし、人生一健康的で、太ももの隙間が一番あった頃だ。

高校になって運動部を辞め、中学の食欲のまま過ごしているとあっという間に3年で10kgほど体重が増えた。増える年頃とは言え、急激に増えすぎて身体中が肉割れを起こした。(今でも残っている)
私よりずっと痩せていた親友が、太ったから夜に家の周りを走っていると言っていた事を今も覚えている。でも何故か危機感はそれほどなかった
自覚がなかった、という言葉がぴったり合った。


新卒でとある工場の事務員になった。
結婚するまで四年ほど務めると、退職する頃には中学時代とまではいかないものの8kgほど痩せていた。間食が無くなった事、お昼のお弁当をかなり少なくしていた事、早出と残業、事務所でかなり気難しい上司とふたりきりのストレスもあったのか、殆どデスクワークにも関わらず痩せていった。
当時は不正出血と、尾骶骨の痛み(医者を回ったけどどこもストレス性だと言われた)、情緒不安定でかなり不健康だったと思うから、もうあの頃には戻りたくない。

結婚してから引っ越し、仕事を辞めて半年ほどで妊娠。そこから悪阻で7 Kg痩せた。(新婚旅行と仕事を辞めた解放感で多少太っていた)
元々嘔吐恐怖症気味なので食べるのが不安になり、しかも産むまで悪阻が抜け切らず(安定期に入っても度々突発的に戻してしまっていた)臨月に入ったところで元の体重+6kgという不本意な優秀さだった。体重管理が大変な妊婦さんには申し訳無いけれど、食べられる人が羨ましかった。
いつも吐いてしまう心配と恐怖に支配されていた妊娠生活で、お腹も目立たず8ヶ月くらいまでは言わなければ殆ど誰にも気付かれなかった。

6ヶ月の頃、車で1時間半ほどの近場へ小旅行に行った先の女将さんだけが気が付いてくれた。
そこの旅館は2歳前くらいの頃、娘を連れて行った場所でもある。


産院は完全母乳推奨医院だった。
里帰りした実家は田舎だった為、行ける産院がそこしかなかったのである。

娘は生まれてすぐ大量に真っ黒なうんちをして、助産師さん曰く普通よりお腹を空かせていた。
初産の私は母乳を満足に出せなかった。
完全母乳を貫くその産院は、頻繁に吸わせていれば出るという方針で、マッサージなどは施しておらず、とにかく産婦さん頑張って、の雰囲気だった。ミルクは貰えず、怒って火がついたように泣く娘をナースステーションの隣の空き部屋で抱きながら毎晩夜中じゅう歩き回った。毎日決まって流れていたのはジブリのオルゴール。

何回か、母乳では補えないK2シロップが貰える日を心待ちにした。スポイトからシロップを一気に飲み干すと糸が切れたように眠った娘。
その姿が申し訳なくて、ひそかに自分を責めて、何より早く退院したかった。

ひとりのちょっときつい助産師さんからも少し理不尽な扱いを受けていて、(8年経って冷静になった今でもあれはないだろうという経験だった)
「ママ、少しずつ母乳増えてるからね!がんばりましょうね!」という励ましに明るく元気に返事をし、無事に退院して実家に戻って、即行で粉ミルクを飲ませた。グッ(こういう人間です)

それでもミルクはどうしてもの時の手段にした。
産院から記入するように言われた表は、間隔もなにも無かった。24時間母乳の文字で埋まった。
文字通り、血が滲んだ。
粉ミルクを60ミリ飲ませると、たちまち寝てしまう。その2〜3時間の間に私も眠った。
退院までに母乳が軌道に乗らなかったので一週間ごとに通院して(勝手に粉ミルク足してるのは隠してた)産後うつのアンケートも多少大袈裟に記入したが完全スルーされたり(眠れない、つらい、頼れないなど)

迎えた1ヶ月検診は産院の小児科の先生。「体重少ないから、混合にしましょう」初めて会う先生から非常にあっさりと、正式に粉ミルクの許可がおりたのだった。

そこから、離乳食がはじまって1歳4ヶ月で卒乳するまでは母乳のおかげかいくら食べても太らず。
毎日徒歩20分の距離をベビーカーを押して午前午後と児童館に通っていたのもおおきかったのか、おそらく一番痩せていた頃。

どうしてそんなに皆勤賞だったかというと、外にいる方が優しいお母さんで居られるからだった。
子どもも私も、笑って過ごせた。
誰かに見張っていて欲しかったのだ。
実家を離れた初めての土地で子どもとふたりきりの毎日は、とにかく正気を保つ事に必死だった。

同時夫は仕事がかなり忙しく、やらないはずだった職場のある役員も同時にこなしており、基本泊まり勤務で24時間不在、4日ほど顔を合わせない事もざらだった。
ここが踏ん張りどころだとお互い分かっていた。

娘が2歳児クラスで保育園に入るまで、私たちはいつも児童館に居た。
職員さん、他のお母さん、とにかく誰かとたわいもない話ができた。なんせ私たちはいつも居るから、会話もしやすかった。
そこで出来た人との繋がりは、娘がどんな環境になっても私たちを支えてくれて、時に役立った。
本当に、この御恩は一生忘れません。と言いたいほど救われた場所だった。

そして理由は色々重なったが、シンプルにお金が無くなり(貯金もまるでなかった)私はパートをする事になった。2歳の子供が居ると話すと次々に断られまくった中、あたたかく迎えてくれた今の職場。子供の病気で何度も何度も突然休んだ。謝るしかできない私にボスはいつも、電話越しの明るい声で、「仕方ない事なんだから」と言ってくれた。休み明けは「大丈夫だった?」と開口一番に気遣ってくれる先輩達。私はここでも救われ続けた。
そして私の体重だが、そこで3キロほど増えたまま戻らない。笑い泣き


体重の事だけを書くつもりが、余計な補足の方が多くなってしまった。

そして常にダイエットをしている(気持ちでいる)私は体重がコロコロ変わるのだ。
一時外食が増え、58キロ台まで増えてしまい、食事制限と毎日30分の筋トレで52kgまで落とした。
その経験が今、私を不安にさせている。
引き続き食生活改善、筋トレなどで身体をしぼり52kg台を定着させたと思ったら、仕事の繁忙期などで少し気が緩むとあっという間に54kg台になってしまう。今がそうだ。
排卵期や生理でどかんと増え、絶望して本気で涙が出たりする(ホルモンバランスのせいもあると思うが)

私は3キロ増減を行ったり来たりしている。
今はこうだが、そのうちこれが10キロ単位になったりしそうで不安なのだ。

子供の頃から食べ物に執着し、小学生時代はスルメを噛み続け、未知の食べ物に怯まない。人から薦められると断れない、残せない。ちなみに好き嫌いも全くない。
あえて言うなら、山羊乳(普段の生活であまり目にしない、カルディに居る。)


痩せている時はいいのだが、少し増えている時はとにかく憂鬱で、絶望感が付き纏い、身体が重くて怠い。あからさまに動かなくなる。
「痩せたいな」と口にすると、52キロの時は「もうこれ以上痩せたらだめだよ!」と言ってくれる夫(好きなタイプは深キョン)が、54キロ台の時は無言なのもひどく落ち込む。
大好きなインスタグラマーや芸能人が、ダイエットしてこれだけ痩せました!という報告をしていると消えたくなってしまう。
それなのに、私の口は咀嚼を求めるのだ。

51キロ台になった時の自分は、生理前で体重計が53.0をさすと震えた。こんなに増えてしまった、と恐怖した。
現在は最早、53キロを目指している状態ですっかり、54キロや55キロが目に慣れてしまった。


街を歩いていても人の体型が気になってしまう。
ガラスに映る自分のシルエットが気になって仕方ない。こんな自分が大嫌いで、でも好きになるには、好きな体型になるしかなくて。
Instagramにはいつもダイエットの投稿が表示され、体重計の数字や辛辣な言葉が突き刺さる。
むちゃくちゃな事だとわかっているが、55キロの自分を受け入れられないのだ。


自己否定ではじまる事に、いい事なんかないような気がするのに、自己肯定感が思い出せない。
今日もInstagramやファッションブロガーさん達の素敵な佇まいを、家のソファで眺めている。




とりあえず、体重についての事でした。
脱線しまくりの話でしたが、ここまで読んでくださってありがとうございました。照れ

今後もこうして自分の事を書くかもしれません。
もっと面白く書けるように頑張ります。




(結婚式の衣装合わせの写真。10年前です。
フェイスライン、この頃に戻りたい。)