悼む人/文藝春秋
¥1,749
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本日の本は天童荒太さん『悼む人』です。
ところで皆さん「悼む」って読めますか?
管理人は読めませんでした。正解は「いたむ」です。
意味は分かりますか?
管理人は分かりませんでした。
辞書には「人の死を悲しみ嘆く」とあります。
本書の使い方としては「人の死を心の中に留め置く」くらいのニュアンスで使われていると思います。
このね、私の国語力の無さ。お前は国語の授業のときに何をしていたのだと、お叱りを受けてもしょうがないこの体たらくなんですけど、めげずに読書を楽しもうと思います。
「悼む人」と呼ばれる坂築静人はその名のとおり、人の死を悼む人。いったい誰の死を悼んでいるのかというとすべての人なんです。火災のあった民家で無くなったご夫婦、チンピラ同士の喧嘩で死んだ男、暴力を振るわれて殺された少年、見聞きしたすべての人の死を悼んで回っているのです。
彼を中心に、彼の生い立ちを知る余命わずかな母親・巡子、かつてそのエグすぎる記事にエグノというあだ名をつけられた下品の権化のような新聞記者・蒔野、そしてかつて愛した夫をその手で殺した謎の女・倖世の物語が紡がれていきます。彼はなぜ人を悼むようになったのか、彼に出会った人はどのように変わってゆくのか、普段見えているようで見えていない「人の死」というもののひとつの捕らえ方を提示してくれる作品です。
以下ネタバレ感想
■蒔野について
この小説は年齢や性別や生い立ちによってきっと誰に感情移入するかが変わるのではないでしょうか。私はドンピシャ蒔野に感情移入してしまいました。もちろん私がかつて結婚していて離婚しているわけではないのですが、私にも家族を捨てて女と蒸発した父がいるもので、彼も死に際に蒔野の父親のようになるのかしらとふと思ったからなんですね。
「悼む人」は無くなった方が生前「誰を愛し、誰に愛され、誰に感謝されたのか」ということだけを心にとどめおくのですが、蒔野にとってクズも同然だった父親にはそんな余地が残されていてはいけないんですよね。理々子のいうように彼を憎んでいた自分の過去が無駄になるし、自分の今の精神の安定はその上になりたっているから。今際の際に蒔野に会いたいという父親に、結局蒔野は会いに行かなかったんですけど、私は「よくやったエグノ!!お前、会いにいかなくて正解だからな!!死ぬ前に肩の荷を降ろさせてたまるか!!」と思わず応援してしまいました。
でも死んだ後で蒔野は彼を許してあげる準備が整うんですね。まだきっと許せてはいないのだけど。それは憎み続けられなかった自分をも許すという痛いプロセスだろうと思うのですが、その気持ちがほんの少しだけ分かった気がします。私もいつか許せる日がくるのでしょうか。
■倖世と朔也について
幼いころの体験ゆえに神も仏もこの世にはいない、人の愛は結局は執着だと早い段階で悟ってしまった朔也と、愛というものが分からずにこれが愛なのかと迷い続ける倖世は非常に好対照で興味深いです。朔也は倖世に自分を殺させることで、倖世が自分に執着してる(=愛している)ということを証明してほしかったのですね。彼自身はとても賢い方だったので、愛というものを細かく細かく定義しすぎたのか、自分の倖世への愛ももうよくわからなくなっていて、そういう壮大な試し行為のような形で発露してしまったのかもしれません。
愛というものに定義などなくて、独りよがりでも間違った伝わり方でも受け取る人が愛だと感じれば愛だといっているのでしょうか。
■静人について
彼の行為が理解できずにこの小説苦手!!っていうひとは結構いるんじゃないでしょうか。私も終わりまで読んで結局分からずじまいでした。作者さんによるとこのお話の発端は
「多くの人々の死にふれ、悲しみを背負いすぎて、倒れてしまった人」
「何もする気にはなれず、ただただ悼んでいる」
というメモだったそうですので。物語の初期の静人はまだこの段階を引きずっているように書かれているのかもしれません。悼むことを続ける中で、悼むということを三つのポイントに絞り、必要以上の感情移入をせずにドライになっていく静人なのですが、関係者からするとこのドライということがありがたいのかもしれません。結局は他人ですから、死んだ人自信の気持ちになることはできません。同情したところでそれは想像の範囲を越える訳ではなく、それこそ偽善的なものになってしまうでしょう。
なんか分かったような気になりましたけど、この人ほんとよくわからない。印象がばらっばら。倖世のことをね、好きになっちゃうのも自然なことだと思う。悼みに集中しろよお前とも思わない。始めから悼みは彼のただの自己満足にすぎないのだから。一貫している必要も無いと思う。でもなんだろう。悼み、悼み、セックス、悼み、悼み、セックスの工程を見せられて喪女は一体なにを感じればよかったんだろう……。多分ね、過去の執着からの脱出だとか、新たな生への希望とかいろいろ意味があるんだろうけど、このシュールさに私はなぜか笑ってしまいました。ほんと作者さん、すいませんこんな読者で。
■巡子について
私はきっと巡子の気持ちを察するには年齢も環境も境遇も違いすぎました。ただ、宗教というものにアレルギーを持っている人にとっては、彼女の旅立ちの描写はきっとひとつの力になってくれるのだろうなと思いました。
この作品、2月14日から堤幸彦監督による映画が公開されるようです。
映画ならより理解が深まるかしら。機会があれば行ってみたいと思います。
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本日の本は天童荒太さん『悼む人』です。
ところで皆さん「悼む」って読めますか?
管理人は読めませんでした。正解は「いたむ」です。
意味は分かりますか?
管理人は分かりませんでした。
辞書には「人の死を悲しみ嘆く」とあります。
本書の使い方としては「人の死を心の中に留め置く」くらいのニュアンスで使われていると思います。
このね、私の国語力の無さ。お前は国語の授業のときに何をしていたのだと、お叱りを受けてもしょうがないこの体たらくなんですけど、めげずに読書を楽しもうと思います。
「悼む人」と呼ばれる坂築静人はその名のとおり、人の死を悼む人。いったい誰の死を悼んでいるのかというとすべての人なんです。火災のあった民家で無くなったご夫婦、チンピラ同士の喧嘩で死んだ男、暴力を振るわれて殺された少年、見聞きしたすべての人の死を悼んで回っているのです。
彼を中心に、彼の生い立ちを知る余命わずかな母親・巡子、かつてそのエグすぎる記事にエグノというあだ名をつけられた下品の権化のような新聞記者・蒔野、そしてかつて愛した夫をその手で殺した謎の女・倖世の物語が紡がれていきます。彼はなぜ人を悼むようになったのか、彼に出会った人はどのように変わってゆくのか、普段見えているようで見えていない「人の死」というもののひとつの捕らえ方を提示してくれる作品です。
以下ネタバレ感想
■蒔野について
この小説は年齢や性別や生い立ちによってきっと誰に感情移入するかが変わるのではないでしょうか。私はドンピシャ蒔野に感情移入してしまいました。もちろん私がかつて結婚していて離婚しているわけではないのですが、私にも家族を捨てて女と蒸発した父がいるもので、彼も死に際に蒔野の父親のようになるのかしらとふと思ったからなんですね。
「悼む人」は無くなった方が生前「誰を愛し、誰に愛され、誰に感謝されたのか」ということだけを心にとどめおくのですが、蒔野にとってクズも同然だった父親にはそんな余地が残されていてはいけないんですよね。理々子のいうように彼を憎んでいた自分の過去が無駄になるし、自分の今の精神の安定はその上になりたっているから。今際の際に蒔野に会いたいという父親に、結局蒔野は会いに行かなかったんですけど、私は「よくやったエグノ!!お前、会いにいかなくて正解だからな!!死ぬ前に肩の荷を降ろさせてたまるか!!」と思わず応援してしまいました。
でも死んだ後で蒔野は彼を許してあげる準備が整うんですね。まだきっと許せてはいないのだけど。それは憎み続けられなかった自分をも許すという痛いプロセスだろうと思うのですが、その気持ちがほんの少しだけ分かった気がします。私もいつか許せる日がくるのでしょうか。
■倖世と朔也について
幼いころの体験ゆえに神も仏もこの世にはいない、人の愛は結局は執着だと早い段階で悟ってしまった朔也と、愛というものが分からずにこれが愛なのかと迷い続ける倖世は非常に好対照で興味深いです。朔也は倖世に自分を殺させることで、倖世が自分に執着してる(=愛している)ということを証明してほしかったのですね。彼自身はとても賢い方だったので、愛というものを細かく細かく定義しすぎたのか、自分の倖世への愛ももうよくわからなくなっていて、そういう壮大な試し行為のような形で発露してしまったのかもしれません。
愛というものに定義などなくて、独りよがりでも間違った伝わり方でも受け取る人が愛だと感じれば愛だといっているのでしょうか。
■静人について
彼の行為が理解できずにこの小説苦手!!っていうひとは結構いるんじゃないでしょうか。私も終わりまで読んで結局分からずじまいでした。作者さんによるとこのお話の発端は
「多くの人々の死にふれ、悲しみを背負いすぎて、倒れてしまった人」
「何もする気にはなれず、ただただ悼んでいる」
というメモだったそうですので。物語の初期の静人はまだこの段階を引きずっているように書かれているのかもしれません。悼むことを続ける中で、悼むということを三つのポイントに絞り、必要以上の感情移入をせずにドライになっていく静人なのですが、関係者からするとこのドライということがありがたいのかもしれません。結局は他人ですから、死んだ人自信の気持ちになることはできません。同情したところでそれは想像の範囲を越える訳ではなく、それこそ偽善的なものになってしまうでしょう。
なんか分かったような気になりましたけど、この人ほんとよくわからない。印象がばらっばら。倖世のことをね、好きになっちゃうのも自然なことだと思う。悼みに集中しろよお前とも思わない。始めから悼みは彼のただの自己満足にすぎないのだから。一貫している必要も無いと思う。でもなんだろう。悼み、悼み、セックス、悼み、悼み、セックスの工程を見せられて喪女は一体なにを感じればよかったんだろう……。多分ね、過去の執着からの脱出だとか、新たな生への希望とかいろいろ意味があるんだろうけど、このシュールさに私はなぜか笑ってしまいました。ほんと作者さん、すいませんこんな読者で。
■巡子について
私はきっと巡子の気持ちを察するには年齢も環境も境遇も違いすぎました。ただ、宗教というものにアレルギーを持っている人にとっては、彼女の旅立ちの描写はきっとひとつの力になってくれるのだろうなと思いました。
この作品、2月14日から堤幸彦監督による映画が公開されるようです。
映画ならより理解が深まるかしら。機会があれば行ってみたいと思います。