なぜ勉強させるのか? 教育再生を根本から考える 光文社新書/光文社

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 踵が破れていた過去の相棒とおさらばし、
新たな相棒となるウォーキングシューズを購入しました。管理人です。

 でもね、重大事実発覚。この靴、靴擦れできんの。
ウォーキングシューズですよ??????
華やかさとかオシャレ感をそぎ落としてウォーキングに特化して鍛え上げられてきたやつらですよ。たとえて言うならスナイパー専門の軍人のようなものですよ。
そのスナイパーが視力0.1以下だったみたいなもんですよ!!!!!
亀山薫の後の相棒が神戸尊だったみたいなもんですよ!!(神戸さん好きですけど)
ショックでしたね。絆創膏を足に貼ってウォーキングシューズ履く悲しさね。

 気を取り直して。本日の本は諏訪哲二さん『なぜ勉強させるのか?』です。

 勉強というものから逃れ逃れてこの体たらく。
今一度、勉強というものを勉強してみようとこの本を手に取ったしだいであります。

 「ゆとり教育」って記憶に新しいんじゃないでしょうか。
近年新社会人となってきた若者たちを「ゆとり世代()」と揶揄するような意味で使われることもあるこの言葉。実施されたのは2002年からです。
 ゆとり教育をざっくり言うと「子供を学校に無理やり合わせるのではなくて、学校の教育を子供にあわせていこう」というものだったそうです。へぇ、知らんかったわ……。でもこのゆとり教育、「学力低下」論争に負けて姿を消してしまいます。今では親が積極的に子供を管理・教育する「学力向上」世代になっているんですね。

 でも、学力低下の問題は必ずしもゆとり教育だけの責任ではないと筆者は言います。そもそも近年では子供が「自分は自分、それでいい。みつを」みたいに、変に自分を肯定しだしているというんですね。自分をすでに完成されたものだと誤認しているので、先生が何を言っても自分をよりよく変えていかないというわけです。このような生徒のことを「新しい生徒」と筆者は表現しています。

 自分は自分であるという「個性化」と社会の一員であるとする「社会化」のバランスが大事なんですね。どちらが大きくなりすぎてもいけない。子供たちは「自己」を形成していくためには、一度社会によって自己を失わなければならないということに、なかなか気づけないんです。社会的な個人になるということは、決して自分の主義主張を押し通してなるものじゃないんですね。

 次はじゃあ何のために学校や教師がいるのか?という話になります。そもそも勉強って何をするためのものなんでしょうか。私はこの本を読むまで「知識を身につけるため」だと思っています。でも諏訪さんはそうではなく、「知識を身につける」ためと「人間的に成長するため」であるとおっしゃっています。
 人間は自然にしていては絶対に勉強なんてしません(する人もいるでしょうけど)。勉強しないほうが普通なんです。でも、それでは近代化した社会を生き抜くことはできません。だから学校の先生が口うるさく根気強く、勉強できるような人間になる手伝いをしてくれているのです。

 他には無宗教者である筆者が「唯一神」の存在を意識していたのが印象に残っています。欧米マンセーをしているわけではないのですが、私たち日本人には絶対的な『神』という存在がいませんよね。だからややもすると自分に全能感を持ちがちです。「なぜ勉強しなければならないのか?」の問いを発しているのはいまだに全能感を捨てきれないでいる幼い私であるのです。そんな質問、誰も答えられないに決まってます。だってなぜ勉強するのかは「わからない」が正解だもの。
 でもそうやって自分に全能感を持ったまま、自分でなんでもできるというものはただの思いこみです。人は絶対に一人では生きてはいけないのに、自分を曲げずに人とともに生きてこなかった人にはかならず不備が生じます。これが現代の生きにくさなのかもしれません。

 最後に、筆者は「勉強」というものは、今の自分にはない新たなものを取り入れて、自分を一度否定して、再構築するものであると言っています。それが、独りよがりな自分を、社会的なものにしていくプロセスなのだと。自分自身の「ありのまま」は、そのままでは社会に通用しないんです。なんだか大ヒットしたアナ雪の歌が、現代の肥大化した自意識を表しているような気がして、背筋が寒くなりました。

 なんか自分用メモみたいになってしまった。