フラニーとゾーイー (新潮文庫)/新潮社

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 秋服がなくていまだに半そでを着て凍えている管理人です。
秋服どこへ消えたのかな……大掃除したときに捨てちゃったのかな……。

 さて、本日の本はサリンジャー『フラニーとゾーイー』です。
管理人はサリンジャーだとか村上春樹だとかの難しい(らしい)本は全然読めないんですが、これは知人に薦められたので読んでみました。爆笑問題の太田光さんの愛読書だそうですね。ますます難しそうだわwwww

 フラニー(25)とゾーイー(21)はグラース家の子供。末っ子の妹と末っ子から二番目の弟。
グラース家というのは超絶天才児ばかりで、特に一番年上のシーモアは抜きん出た存在だった。しかし、そのシーモアはこの物語が綴られる7年も前に自殺をしてしまっているのです。

フラニー章では、大学生のフラニーとその彼氏のレーンがレストランでお話をしています。フラニーは彼のことが好きなのだけれど、彼の話すエゴに満ちたフロイトだのドストエフスキーだのの話がどうしようもなく汚く見えるんですね。それで本当に体調が悪くなってしまう。大学のどこを見てもエゴにまみれたやつらばかりで、フラニーは大好きだった演劇も辞めてしまい、家に引きこもるようになります。フラニーはどうしても自殺してしまった完璧な兄シーモアと周りの人間を比較してしまうんですね。

 ゾーイーの章ではそんなフラニーを見かねた口うるさくて空気の読めない母親がゾーイーになんとかしてやってくれと頼みます。ゾーイーは兄弟の仲でも別格の美しさを誇り、俳優をやっています。
 彼は世俗とはなれて祈り続けるフラニーに、その祈りは何のためのものなのだ、と問うのですね。フラニーはくだらない物や知識欲を満たすやつらを軽蔑して、精神的な宝を求めているのですが、ゾーイーは物欲・知識欲と精神の充足にはなんの違いもないとすっぱりと言い切ってしまうのですね。キリスト教には殉教して聖人となられた人がいますが、ゾーイーはそいつらはエゴにまみれて生きる自分たちと何にも変わりはないぜ、と言うんです。聖人たちも「キリスト教の教えのために死にたい」という欲があってそんなことをしたわけですから。
 もちろんフラニーはそんなことわかってるんですね。そんなエゴな自分にほとほと嫌気がさしているんです。でも、ゾーイーはそれでいいというんですね、もし仮に、何のエゴもなく祈りの本当の意味を理解し、人に道を説く人物が現れたとしても、そんなのよりも、フラニーのためにチキンスープをくどいくらいに勧めてくる母親の行為に気づかなければならないと。
 シーモアが『太っちょのオバサマ』のために身なりをととのえたように、祈るならそんな人たちのために祈らなければならないと、そしてその太っちょのオバサマはすべての人だと。その言葉にフラニーは救われて、ああ、シーモアもそんな人のために祈ったのだなぁとやっとシーモアの呪縛から解放されるわけですね。

 これはキリスト教の隣人愛ってこういうことなんだよ~という解釈なんでしょうか。あまりキリスト教に明るくないもので、分からなかったんですけど。

 この本は、自分をフラニーに重ね合わせる人と、そうでない人とで感想がまるで違うのではないかな。フラニーに共感できる人は、まさに救われるだろうし、これ以上ないほどの自己肯定感を味わえる気がします。
 でも、私はフラニーのように人がエゴでまみれていることに悩みもしなかったし、大学にいけて、彼氏も居て、素敵なお兄さんが居て、賢くて、美しくて、人からうらやまれるよう案要素をすべて持っているのに悩んじゃうフラニーに100%共感はできなかったですね。なんて贅沢なんだ!と思っちゃいました。解放されたフラニーに言わせれば、私もフラニーも大きな違いはないってことなんでしょうけど。

 読後すぐには、ものすごく救われた!!!!と感動していたのですが、しばらく経ってみると「あれ……救われているのは私じゃなくて、幸せなフラニーだわ……」と気づいてしまいました。こんな性格ひん曲がった読み方してごめんなさい!!