春にして君を離れ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)/早川書房

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 優しくて皆から信頼される弁護士の夫、自立して家庭を持ち幸せに暮らしている子供たち、家には掃除が行き届き、自分はいつまでも若々しい……女ならそんな人生を送りたいものだと誰もが思う主人公のジョーン・スカダモア。しかし彼女の幸せな生活が、彼女にしか見えていないものだとしたら……?

 ジョーン・スカダモアは幸せな主婦。優しい夫を一人家に残し、娘を見舞いに行ったその帰り道天候の影響で砂漠の中の宿泊所にぽつんと取り残されてしまいます。手紙を書き、本を読み、いよいよすることがなくなった彼女は思索に耽るようになります。そこで浮かんできたのは、到底受け入れることのできない恐ろしい妄想でした。

以下ネタばれ

 怖い!ほんと怖い。

 今まで心のよりどころにしてきた夫や、家族たちの一挙手一投足が自分を非難し避けていたのかもしれないと気づいてしまうジョーンは自分自身かも知れないんです。

 レストハウスに前に話した尻軽女のブランチや、犯罪者の夫を持った哀れな女レスリー。完全に馬鹿にしていたこの二人の人物が、まさか自分を哀れんでみていたなんて。自分が良かれと思ってしていたことが逆に愛する旦那さんや子供たちの息を詰まらせていたなんて。「毒親」という言葉が浮かびました。

 でも自分が奥さんなら、母親なら、家庭の安定と子供たちの最大公約数の幸せを求めて同じことをしてしまう気がします。もしジョーンがロドニーや子供たちの提案を受け入れて、ロドニーが農場を経営して上手くいかなかったら、子供がぐれて犯罪者になってしまったら、それこそ誰も幸せになれないと思ってしまうから。この考え方がだめなんでしょうね。

 解説の栗本さんの「何もしなかった家族やロドニーも悪い」という言葉にはハッとさせられましたね。確かに家族って皆で作っていくものですし、「あいつは毒妻・毒親だからなに言っても無駄、俺たちは我慢するしかない」っていう態度も大人の対応ではないですよね。結局は似たもの夫婦なのかな。

 ラストで彼女は宿泊所で感じた恐ろしい妄想を確かめるチャンスを逃してしまいます。すべてはなかったこと。元通り。でもきっと、ロドニーに許しを乞うたところでロドニーにはそれを受け入れる度量と若さはもうないんじゃないかな。逆にロドニーは「何のことだい、長旅で疲れたんだろう」とかいって面倒な家族会議を避けようとするんじゃないのかな。自分さえ我慢すれば彼女は幸せっていう自己憐憫にひたりたいがために。

 奥さん・母親・一人の女として恐ろしさと共感の入り混じった複雑な感想をもったすばらしい作品でした。