沈黙 (新潮文庫)/新潮社
¥578
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皆様こんばんは~(*´∀`*)
 
職場に携帯を忘れてきてしまった管理人です。
スマホ&ネット依存症の私にはツライ。
なんでも、ネット依存になってしまった中学・高校生向けに
脱・ネット環境合宿なるものの実施が検討されているようですね。
もし私が学生だったらそんなところでやっていけるかしら。
本があれば大丈夫かな。
 
さて、本日は遠藤周作さん『沈黙』であります。
「いつか読もうと思っていた本リスト」に
長々と鎮座していたのですが、図書館に行った時に
ちょうど目の前に文庫が現れたので「時は満ちた!」と思い読みました。
本作は、キリシタン弾圧の時代に
棄教か否かに苦しむ一人の司祭のお話です。
 
私はミッション系の高校を出ていて基本的なキリスト教の
知識があったので、とても興味深く拝読しました。
ノンフィクションっぽいと聞いていたのですが、
いやいや!考え抜かれたプロットと
効果的に配置されたガジェットで
どちらかというとドラマチックな展開でございました。
 
以下考えがまとまらないから
とりあえずざーっと気づいたとこ箇条書き。
 
冒頭で、司祭たちからも篤く慕われるフェレイラという司祭が
弾圧のいや増す日本の地で、
転んだ(棄教した)という報告がなされます。
この報告をにわかには信じられなかったロドリゴ司祭は
命を捨てる覚悟で仲間と共に日本ヘとやってきます。
 
同じく司祭として日本にやってきたガルペ、
隠れキリシタンとして彼を迎え入れる日本人の信者、
命おしさにあっさりと踏み絵を踏んだキチジロー
柔和な顔とは裏腹に狡猾に司祭を転ばせる
かつての信者、井上筑後守、
そして棄教の後に矮小な人物へと成り下がったフェレイラ。
 
様々な登場人物を配し、また聖書の中の登場人物と対比させることで
ロドリゴの心情を上手く表現しているように思います。
 
迷うことなく命を投げ出し、天に召し上げられたガルペと
それすらできずに転ばざるを得なかったロドリゴ。
 
あっさりと転び、加えて司祭を売り金を手にし
それでも許しをこい続けるキチジローとユダ。
 
同じように転んだキチジローとロドリゴの違いはなんなのか?
そこに違いはあるのか?キチジローは絵を踏むとき
イエスの痛みを感じただろうか?
 
ロドリゴはあるときはイエスに例えられ、
あるときはユダに例えられ、
またあるときは彼を3度も知らないと言った
ペトロに例えられている。
 
作品の主題はもちろん神様は何故黙したままなのかということ。
いろんな人がこの弁神論への解答を持っていると思いますが、
私は米田神父が書かれた『寅さんとイエス』に載っている考えが好き。
ちゃんとした答えは書いてないのだけれど、
少なくとも自分が何を選択するのか?という答えにはなった。
興味のある人はご一読を。
 
ミッション系の学生だった私としては
「日本人には本当の意味での神様は理解できない」という言葉が
結構重くのしかかっている。
もちろん信者さんはいろんな反論ができるのだろうが、
生まれ持った土地で身につけてしまった常識という不要な知識のコレクションは
そう簡単には手放せないのだと思う。
 
解説の方は最後にロドリゴが踏み絵を踏むことによって
転んだのではなく、超カトリックを表現し得たと書いているが、
私はこれがカトリックなんじゃないのか?とオモタ。
 
作者自身とても悩まれた書かれたのではないかなぁ……。
素人から見ると、ロドリゴは絵を踏むことで
より強い信仰(愛情)を得たように見えるのだけど、
でももやっとするよね!もやっと!!!
 
カトリックの信者さんと喋ったことも何度もありますが
皆さん「信仰が救いだと思ったら大間違い!苦難への扉だよ」
と言われます。
それはこのように神が沈黙したままだということを知っているからなのかな。
日本の神様のように「○○してください、ご利益ください」と
お願いするような対象ではなく、
ただ畏れ、祈るだけしかできないから。
 
もう無理\(^ω^)/
もう考えること多すぎて無理/(^o^)\
これはいろんな人に感想を聴きたくなる本だなぁ。