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ラナ・ゴゴベリーゼ 監督

 

女性作家エレネとその人生に関わった人々の過去、
そしてソヴィエト連邦下の記憶。
伝説的な女性監督ラナ・ゴゴベリゼが91歳にして、
日本の“金継ぎ”に着想を得て描いた過去との和解の物語。

 

トビリシの旧市街の片隅。作家のエレネは生まれた時からの古い家で娘夫婦と暮らしている。今日は彼女の79歳の誕生日だが、家族の誰もが忘れていた。娘は、姑のミランダにアルツハイマーの症状が出始めたので、この家に引っ越しさせるという。ミランダはソヴィエト時代、政府の高官だった。そこへかつての恋人アルチルから数十年ぶりに電話がかかってくる。やがて彼らの過去が明らかになり、ミランダは姿を消す……。
3人を結ぶ過去が語られ、ソヴィエト連邦下の記憶が重ねあわされていく。ジョージアの伝説的女性監督ラナ・ゴゴベリゼが、自身の過去を投影し、91歳にして発表した過去との和解の物語である。音楽は2019年に亡くなった世界的作曲家ギヤ・カンチェリ、映画監督でもあるナナ・ジョルジャゼが主役のエレネを演じている。

 

当たり前と言えば当たり前のことですが、スパッと何かが変わるわけではなく、独立という一見大きな変化にみえても権力者は相変わらず権力者のままという状態だったらしく、この映画のミランダにしてもその後も政府の中枢にいたとの設定かもしれず、精神的に大きな挫折を味わったようには描かれていません。

そうしたことからか、態度は横柄とまではいかないまでも人を見下すような人物となっており、特にエレネに対してはいまだにソ連邦時代の栄光をひけらかすようなところがあります。たとえば、皆でテーブルを囲み食事の場面(だったと思うが…)で、エレネのことをこれでもよく知られた作家だったのよとさらりと言ってのけたりします。さらに、エレネは自分の作品が発禁処分になった過去を持っているのですが、その処分を出したのは私よとぬけぬけと言い放ちます。

こうしたミランダに対してエレネが表立って怒りをあらわすようなシーンはなく、なかなかエレネの心情が読めない映画です。

ミランダが過去にとらわれているとしますと、エレネも同じように過去にとらわれているということで、それが昔の恋人(なのかな)との電話による会話で表現されています。映画はエレネの誕生日から始まり、誰もそれを覚えていないとの本人の独白で始まり、そこに昔の恋人アルチルから電話が入ります。誕生日であることを覚えていたということです。それ以降頻繁に電話があり、映画としてもかなりの分量をしめています。ただ、とりとめのない会話ですのでほとんど記憶できていません。

このアルチルに関しても、ミランダが絡んできます。どういう経緯で電話の相手がその男だとわかったのかは記憶していませんが、ミランダが言うにはソ連邦時代、若き青年アルチルがしきりに自分に近づいてきていたとエレネの気持ちを逆なでするように言います。ただ、これに対してもエレネがなにか反応をしていた記憶がありません。

娘からミランダを引き取ると聞いた時には、ミランダが来るのなら私が出ていくとまで言っていたのですが、実際に来てみればエレネにはミランダへの怒りや憎しみのような感情はほとんど感じられませんでした。

ですので、「金継ぎ」という陶器の修復技術から着想したという「金の糸」ですが、そこからイメージされる「和解と修復」というテーマはあまり感じられなく、結局、人の思いというものはそれが憎しみであれ好意であれ、時の流れとともに消えていくものであり、さらに言えばそれでしか消えないものなのかもしれないと感じます。

もちろん、その前提となるのは憎しみの場合は謝罪があってこそであり、それがなければその憎しみも次の世代へとつながっていくものであることは言うまでもありません。

この映画では、ミランダからの直接の謝罪のようなシーンはありませんが、ミランダが自分の持ち物を処分して恵まれない子どもたちに送っていることをエレネが知ることをそのひとつとして表現しているのでしょう。

 

 

2015年 ジョージアを旅しました。 トビリシの旧市街 写真を撮りました。 2012年に訪れた時より。石の道路はすくなくなっていました。 

 

岩波ホールなくなったら、ジョージア映画が日本で上映される本数は減るかも ちょっと悲しいね。