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オルハン・パムク/宮下遼訳

『赤い髪の女』で、主人公ジェムが1980年代の子供時代を回想して始まる。ただし冒頭に「私は作家になりたかった」とあり、それは途中でも繰り返されるから、進む文章に常にかすかなメタ視線が入り込み、最後の最後に効く。
 失踪した父を持つお坊ちゃんジェムは、当時まだ残っていた井戸掘りのアルバイトに励まざるを得なくなり、マフムト親方を慕いながら肉体労働を繰り返す。その様子は読者をとらえ、誰にでもある今はなき時代への追憶にひたらせてしまうだろう。
 そうやってしばらくの間、おとぎ話のような掌編の組み合わせに見えた本作を前に、パムク愛好家の私でさえ「やはり作家は老いてくると懐旧の念にひたすらとらわれるのだな」と思わされた。ほんわかしたまま終わるのだな、と。
 ところがしかし、町へ出て赤い髪の女にひと目惚れをしたジェムが親方に『オイディプス王』の父殺しの話をするエピソードが、やがて突然時間を飛んで青年になる彼へとつながり、東洋の『王書』の中の子殺しのテーマにからめた文学談義にもなりながら小説の質を変転させていってしまう。
 ふと気づけば、赤い髪の女に恋をしていたジェムは、彼女との関係を忘れて賢い妻を持ち、事業を成功させている。新しいトルコの人材となった彼は、不動産に関わってイスタンブールの激動を体感する。前作『僕の違和感』では貧しい主人公がヨーグルトを売り歩く中で緻密に語られた都市の今昔が、今度は俯瞰で提示される。
 と、驚くことにいつの間にか文のタッチが変わっている。一体どこで切り替えられたのか、読者は煙に巻かれるだろう。確かに少年だった頃のジェムでは青年時代は語れないし、それより上の年代となればなおさらだ。
 しかもイラン空爆などがテキストの中にあらわれ、失踪した父が属していた政治組織の話などが出てくるに至っては、東西の歴史がそのまま小説に刻まれるわけで、日々親方が掘る井戸の脇にいた頃のジェムでは到底理解出来なかった国際政治までを、大人となった彼は語ることになる。
 同時に、あの父殺しのテーマは重低音で作品内に潜み続け、やがて思いもよらない姿をとる。その時、我々はパムクがすらすらと書いていたはずの文がいかに複雑に計算されていたかに舌を巻く。
親方によれば七層からなる天のように大地もまた層をなしているらしい(この話を聞いたせいで、私は星空を見上げながらも頭の下に横たわる暗黒の世界に想い馳せてしまうことが一度ならずあった)。たとえば、色の濃い黒土の二メートル下から、水一滴通さないひどく乾いた粘土質の地層が現れることもあるわけだから、水を探す場所を絞り込もうとした昔の井戸掘りの匠たちは、土や下草、虫、はては小鳥の言葉にさえ耳を傾け、大地を歩きながら足の下の岩や粘土の存在を察知しなければならなかったのだ。
昔の井戸掘り人の中には中央アジアのシャーマンよろしく超自然的な力や直観を信じたり、土の下に住む神々や精霊たちと言葉を交わそうと試みる者もいたそうだ。そして、安価に水を探り当てたいと望む者は誰でも、父であれば一笑に付したであろう迷信の数々を信じてしまうものだ。ベシクタシュ地区の一夜建ての住民たちが、庭先で同じように水を掘っているのを見かけたことがある。その家に暮らすおじさんやおばさんが、虫が這い、鶏どもが駆けまわる雑然とした裏庭のどこに穴を掘ろうかとうずくまって、病気の赤子の胸に耳を押し当てる医者のように、地面の声に耳を傾けていたものだ。
「神の思し召しがあれば、2週間で仕事は終わるだろうよ。10メートルかそこら掘り下げれば水は出るさ」
高度成長期の開発が進む大都市イスタンブールの郊外では、まだまだ近代でない井戸掘りがおこなわれていた。 
いまのイスタンブールはミニバスも走らなくなり渋滞も解消しているし、地下鉄もどんどん路線が伸びて便利になっています。
高度成長期にある。地方からの多くの出稼ぎ者のスラムでを、父親との愛情を知らないまま成長した青年の初恋は赤い髪の女。面白いトルコ的小説です。