
ロン・ハワード監督
本作『ヒルビリー・エレジー -郷愁の哀歌-』は、これをさらにアメリカを代表する名匠ロン・ハワード監督と、『シェイプ・オブ・ウォーター』(2017年)、『アラジン』(2019年)の脚本家ヴァネッサ・テイラーなどが、一つの物語として映画化したものだ。ここでは、そんな本作の人間ドラマの背景にある様々な要素を考えながら、描かれたものの意味をより深く考察していきたい。
最初に映し出されるのは、少年時代の主人公J.D.が、ケンタッキー州南東部の小さな町ジャクソンの自然の中で過ごしている、ある夏の光景だ。ジャクソンは自然のほかに、国道を走る車のための数軒のファストフード店、町の人々のための教会や学校、小さな農園くらいしかない場所である。かつて祖父や祖母が暮らしていた土地であり、J.D.はそこで生まれても育ってもいないが、この山間にある箱庭のような世界は、彼や姉のお気に入りの場所になったという。
このように、アパラチア山脈の丘陵地帯などに住んでいる白人は、田舎者を意味する「ヒルビリー」などと呼ばれ、アメリカの富や文化的な生活から切り離された存在として見られてきた。J.D.は、そこにルーツを持つ人物なのだ。
Lacey Terrell/NETFLIX (c)2020
祖母は、J.D.の祖母が13歳のときに妊娠したことで、家族を捨てて祖父とともにオハイオ州のミドルタウンに移住した。本作でも描かれるように、ジャクソンとミドルタウンは国道でつながっていて、ヴァンスの家族以外にもヒルビリーが移住した例が多いのだという。ミドルタウンには大規模な製鉄工場が工員を求めていて、当時は働き口もあった。
ヴァンスの祖父と祖母がピックアップトラックで国道から山を下りてミドルタウンに移り住むところを、巨大な製鉄工場を背景に大スペクタルで見せていくシーンは、胸を締め付けるような印象深いものとなっている。それは、普段はあまり顧みられることのない、しかしアメリカの民衆の一時代の姿を切り取った重要な歴史の1ページであるといえる。なぜなら、この二人と同じように山を下りてミドルタウンに移り住んだヒルビリーが少なくなかったからだ。彼らは皆、この国道の風景と工場の景色を見ているのだ。
このようにヒルビリーの一部は、アメリカにおける一般的な大量消費社会に同化し、文化を吸収しながら、逆に自分たちの流儀をアメリカの各地方へと拡散させていった。その意味で本作は、ルキノ・ヴィスコンティ監督が映画化した、イタリア貴族の興亡を描く『山猫』(1963年)のように、一族の歴史と時代の流れを同時に映し出した大作にもなっていると考えることができる。
J.D.の祖父母や母親がミドルタウンに住むことで、いろいろな軋轢もあったようだ。原作となった回顧録では、クリスマスに店で大騒動を起こした例を紹介しているように、家族は気性が荒く、度を超えた悪態をつくためトラブルを招くことが多かったのだという。本作は、原作に書かれた家族の気質を、J.D.の成長物語のなかに周到に織り込みながら表現していく。白人貧困地域の人々のアメリカの現実を姿を強く反映し、同種の問題を映し出していることも確かである。弁護士たちとの会食でJ.D.が他の惑星に降り立ったように困惑する描写からも分かる通り、アメリカ社会は裕福な者と貧困のなかにある者との間に、分かりやすい分断が存在している。裕福な者たちは初めから有利な環境が与えられ、貧しい者は不利な環境を並々ならぬ努力で突破していかなければ、彼らと同じ物を食べ、同じ服を着ることはかなわないのである。
そしてJ.D.の母親が違法薬物に手を出し、少年時代のJ.D.自身も犯罪に手を染める危険に直面するように、貧困者には人生の落とし穴も多い。その結果として起きる問題が、格差の固定化だ。優秀だった母親が貧しく孤独な生活を送ることになってしまったように、能力ではなく生まれによって選択が制限されるという状況は厳然としてある。アメリカン・ドリームという光は、ラストベルトを避けて裕福な者たちをさらに照らしているのだ。その仲間に入ることができる貧困者は、様々な誘惑を振り払い、人一倍の努力を重ねて差別にも耐え続ける必要がある。
この現実がありながら、アメリカに存在する人種差別を、白人貧困層ばかりに負わせるのもフェアではないように思える。なぜなら高所得者にも大学出身者のなかにも差別主義者は存在するからである。
J.D.がインド系アメリカ人をパートナーにしたように、格差や教育の分断を解消することができれば、人種間の分断を融和の方向へ進ませる人物が貧困層からも多く現れるのではないか。本作の冒頭で少年時代のJ.D.は傷ついた亀を助けたが、そんな“善いターミネーター”たちが“悪いターミネーター”にならないようにするには、格差が先鋭化されてしまった社会構造自体の変化が求められるはずである。本作がたどり着くのは、そういった結論だ。