『オープン・シティ』散歩するにちょうどいい大きさの都市NY また散歩したくなったね | ・・・   旅と映画とB級グルメ と ちょっと本 のブログ

・・・   旅と映画とB級グルメ と ちょっと本 のブログ

 ...........   旅と映画とB級グルメ とちょっと本 を紹介しています
 ...........    旅の 思い出と 東欧 トルコの映画 の紹介と本の紹介

『オープン・シティ』散歩するにちょうどいい大きさの都市NY

テジュ・コール/著 、小磯洋光/訳
マンハッタンの北から南まで縦横に歩きながら、語り手の見る日常は研ぎ澄まされ、出会う人々のルーツや体験が静かに響き合う。思考の探索は少年時代を過ごしたナイジェリア、祖母を探して訪れたブリュッセルへとつながり、自分たちが暮らす場所に積み重ねられた暴力や支配関係が見えてくる。異質な誰かとすれ違い、言葉を交わし、音楽や渡り鳥に思いを馳せる静謐なひととき。そこに潜む亀裂と違和感が、埋め合わすことのできない過去を浮かび上がらせるとき、わたしたちの世界の現在がどれほど複雑で、痛みに満ちているか、思わずにはいられなくなった。
だから、主人公と他者とのやりとりはつねにおもしろい。挨拶(あいさつ)程度にしか口をきいたことのない隣人、電車に乗り合せた人、道ですれちがう人、たまたま言葉を交わしたマラソンランナー、タクシー運転手、靴磨きのハイチ人、飛行機で隣合った老婦人、不法滞在者勾留施設にいたリベリア人、旅先で出会った人々、コンサートホールで見かけた老女--。基本的に悪意も利害もない、おなじ世界の構成要素である他者。敬愛する老教授や、同郷の友人の姉、別れたガールフレンドといった、彼にとって個人的な意味を持つ人々ではない人々、いわば風景の一部としての他者だ。ジュリアスは「いっときアパートメントから鳥の渡りを観察するのが習慣になっていた」のだが、それらの他者は彼にとって、「空のそこかしこに泡のように現れる、ほとんど色彩を欠いた点」である鳥と似たものだ。
 ひっきりなしに思索しているジュリアスは、いろいろな人と議論もする。だからここにはたくさんの考察がある。ヘイトクライムについて、移民をめぐる現状について(「描写の犠牲者」について)、政治について宗教について歴史について、小説について(「オリエンタルでありたいという衝動に抗(あらが)う問題」について)、精神医学について薬草について死について、はてはトコジラミについてまで。考えさせられる問題ばかりだし、読んでいて刺激的でもあるのだが、考察はあくまでも考察であり、語り手であるジュリアスは淡々としてそれをこなす。そこ--というのはつまり、主人公の世界との距離のとりかた--こそがこの小説を非凡かつ優雅にしている。ある意味では、世界の諸問題もまた鳥の渡りのようにただここに存在するものであり、歴史の(あるいは現在という時空間の)構成要素の一つなのだ。
 ジュリアス自身がどういう人物として描かれているか(年上の女性との唐突なアバンチュールの一幕とか、ややスノッブな趣味嗜好(しこう)とか、老教授の死に対する反応とか、同郷の友人の姉との関係とか)、小説には、ジュリアスの故郷ナイジェリアでの出来事がたびたび織り込まれる。家族の記憶、学校生活、親しかったわけではないのに心を惹(ひ)かれた祖母のこと。親しさの基準の曖昧さは、この小説にくり返し現れるモチーフの一つだ。人は人を、何をもって親しいとか親しくないとか言うのだろう。
マンハッタンの北から南まで縦横に歩きながらオープン・シティでの出会いの物語。

International Center of Photography ニューヨークの国際写真センターで写真展に行く

テジュ・コール は写真家でもある。

 

 

 

 

美術史家でもあるので。

53丁目のアメリ民芸美術館に訪れる。


フェルメール 

ハンマースホイ シャルダン 静寂を描いた巨匠たちだ。巨匠の作品をあげなから。ら。
ジョン・ブルースター・ジュニアの特別展では

 聾唖肖像画家は同じ静寂を描いたが、「片方の靴を脱ぐ」笑われても構わないという顔していると著者はいっています。

 

日本人の教授の友人がいるのがうれしいね。