世界の名前
物語を紡ぐ名前 バルカン半島 雑誌「図書」(奥 綾子ユーゴスラヴィア文学)
ユーゴスラヴィアの民話や小説を読み人は「~ィチ(ッチ)」で終わる名前が多いことに気づくだろう。セルビア・クロアチア語では、「~ィチ」は小指辞、つまり、ものの名につけて小さい、愛らしさを表す言葉だが、「~の子」の意味で用いられているうちに苗字になった。個人名(ゾラ→ゾリッチ)だけでなく、職業(漁師リベル→リバッチ)あだ名(ミハイロ→ミカ→ミキッチ)などにも由来する。「誰々の」という所有形容詞に小指辞をつけた「~オヴィチ」(マルコ→マルコヴィチ)は、より親子関係に力点がおかれてできたとされる。そのほか、地名にもつづく「~ニン」(グラダツ→グラチャンニン)をはじめ、出自を反映した名も少なくない。「人種のるつぼ」と形容されるバルカン半島らしく、人々は、ごく自然に名前がもたらす情報に注意を払ってきた。
ノーベル文学賞を受賞したイヴォ・アンドリッチの代表作『ドリナの橋』を見てみよう。
この小説は、作者が子供時代を過ごしたボスニア南部の村ヴィシェグラードを舞台に16世紀からだ二次世界大戦までのバルカン半島の歴史をたどっていく。橋の建造は、ボスニアで生まれたオスマン帝国の大宰相の命令による。激流に幾度となく阻まれながらも、ムスリム、正教徒、ユダヤ人、ジプシーにくわえ19世紀後半にボスニアがハプスブルク君主国の支配下に入るや、村にはハンガリー人、ポーランド人などの出身者が移り住む。登場人物がどの集団にぞくするのか、それは明記されないこともある。名前がすでに帰属を語っているからだ。
たとえば、オスマナギッチ(←オスマン)、トゥルコヴィチ(←トルコ)はムスリムであり、洗礼名に由来するミハイロヴィチ、ステヴァノヴィチは正教徒とわかる。さらにダヴィド・レヴィのようなユダヤ人、苗字が言及されないジプシーの人々。名前こそここで物語を紡ぎ、陰影を生み出す。年代を締めくくる人物アリホジャ・ムテヴェリッチの苗字は「共有財の管理人」による。彼はハプスブルク軍の仕掛けた爆薬によって橋が壊れたとき、名にふさわしく、橋は運命をともにしたのだった。
物語の不穏な結末のあと、村は幾度かの戦いを経験する。20年前の内戦では橋は破壊を免れたもの共同体は、むざんに瓦解した。しかし、バルカン半島の豊かな自然がもたらす。ドリナ側の深緑の水はイヴォ少年時代と変わらず流れている。さながら人の世のごく、時に急流になり濁流になりながら、やがてサヴァ川に、そしてドナウに合流し、黒海(客人を歓待する海)へたどりつくために。
上の記事を読んで「ドナリの橋」を読んでみました。
ユーゴスラヴィアのノーベル賞作家、イヴォ・アンドリッチの代表作。セルビアとボスニアの境界近くにあるヴィシェグラードの町を流れるドリナ川にかかる橋を舞台に、オスマン帝国による橋の建造から、サラエヴォの銃声が聞こえ、オーストリアに橋を爆破される1914年までの400年にわたる大河ロマン、ならぬ橋と川を巡る年代記。
『ドリナの橋』(セルビア・クロアチア語: Na Drini ćuprija[1]、トルコ語: Drina Köprüsü、英: The Bridge on the
DrinaまたはThe Bridge over the Drina)は、ユーゴスラビアのノーベル賞作家イヴォ・アンドリッチの代表作。作家自ら幼少期を過ごしたドリナ川に面するヴィシェグラードを舞台にした歴史小説。第二次世界大戦中にベオグラードで書かれ、1945年にベオグラードで出版された。1961年にノーベル文学賞の対象となった。
ことし、ベオグラードの戦史博物館を訪ねたが、ベオグラードの町の歴史は戦争の歴史そのものといっていい。
8世紀バルカン半島は西欧・東ローマ・イスラムに三分される13世紀イベリア半島のユダヤ教徒が排撃される バルカンに多くのセファルディム(スペイン語を母語とするユダヤ教徒)が移り住む14世紀
オスマン帝国、ロードス騎士団を破りロードス島を獲得モハーチの戦い。オスマン帝国、ハンガリーを破る1541年 - オスマン帝国領ハンガリー成立14世紀からはトルコ系イスラム教徒の勢力がバルカン半島に進出し、15世紀にはビザンツ帝国も滅ぼされます。オスマン帝国によってバルカン半島には新たな宗教と文化がもたらされ、キリスト教的世界は後退します
この物語のはじまる15世紀はオスマンの領地であるバルカン半島のボスニア・ヘルツェゴヴィナのセルビアとの国境の町ヴィシェグラード
橋の建設は1571年。オスマン帝国の名宰相ソコルル・メフメト・パシャは生まれ故郷の近くを流れるドリナ川に立派な石橋を建設するようミマール・スィナンに命じた。ソコルル・メフメト・パシャには忘れられぬ過去があった。少年時代、キリスト教徒の親元から引き離されてトルコ人として教育を受けた(デヴシルメ制)。小舟に乗せられサヴァ川の支流ドリナ川を渡って、遠い都に旅立っていった日の暗く苦しい思い出を忘れなかったのだった。成人の後、彼は大出世をして宰相の地位まで昇り詰めて3代のスルタンに仕えた。
その橋を舞台にした人々の生活、人生のエピソードが様々に語られ、解説にもあるように近代文学以前の語り物、的な印象がある。序盤では橋にまつわるさまざまな伝説が紹介されると物語は橋の建設に遡り、それらの伝説の実像を語っていく部分が面白い。
その後も、橋の建設にまつわる現地の人々と役人とのいざこざにはじまり、洪水に襲われる町の人々の戦いから、望まない婚礼のパレードのさなかカピヤから河に飛び込む花嫁の姿*1まで、いくつものエピソードを連ねながら語っていく。
大洪水が人々を苦しめたこともあった。悲恋に打ちひしがれ橋から身を投げた娘もあった。交通の要衝となった橋の両岸には町が栄えていく。
滔々と流れる河にかかる立派な橋は、岸同士を結びあわせるものとして、そして橋の中央のカピヤ(門)と呼ばれるところは憩う場として人々とともにあり、これからもあるだろうというこの町の永続性の象徴として人々の「哲学」として存在していた。キリスト教徒もイスラム教徒もユダヤ教徒も、違う存在ではあるものの最大限友好的に共存する、そういうボスニアの町を象徴するものがこの橋でもある。カピヤというのは昨日の写真
にある、橋の中央に設けられた石のソファのことです。
とはいってもすぐに時代は激動の転換期へと進んでいく。この時期、カラジョルジェの乱などが起こり、セルビアの独立をめぐった戦争が始まる。その影響はヴィシェグラードにも及んでいて、検問設置や反体制運動弾圧で農民が犠牲になるなどの事件が起こる。さらには、ボスニア・ヘルツェゴヴィナがオーストリア=ハンガリー二重帝国へ併合され、バルカンを支配するオスマン帝国の国境が一夜にして遙か後方に移動してしまう。
後半では若者たちが熱っぽく天下国家、民族主義や科学などについての議論を戦わせる様も描かれていて、国民国家、ナショナリズムという新しい潮流が持ち込まれてくる。ここらへんはまさに近代文学という印象だ。
ヴィシェグラードの町にもこの激動の歴史は影を落とし、カピヤでは拷問で農民が生きたまま串刺しにされたり、首をさらされたり、幾多の血が流されることにもなる。多民族共存の町が、次第に近代国民国家の潮流が流れ込むなかで変貌を来たし、オーストリア=ハンガリー二重帝国とオスマン帝国などの大国同士の戦いのなかで戦乱に巻き込まれていく歴史の悲しみがここにある。とはいっても、じっさい橋は建設当時にもその進行を妨害するものの処刑が行われるなど、幾たびも血にまみれた歴史があり、理想郷が近代になるに従って失われていく、と単純に要約するのも間違いだろう
しかしやはり小説の眼目は、様々な民族、宗教がともに存在した町のあり方を力強く描くことの方にあるだろう。そうした様々な民族がともにあること、それがボスニアだという信念が基調となっている。サラエヴォの銃声によって終わるこの小説が発表されたのは第二次大戦後のことで、二つの世界大戦を経てユーゴスラヴィアが成立した後のことになる。
多くの民族が寄り合った連邦国家ユーゴスラヴィアのなかでも特に民族混在が顕著な地域ボスニアを象徴するこの作品は、その意味できわめてユーゴスラヴィア的だったのだろう。
多民族共存ということで大きなポイントは、アンドリッチの両親はカトリックの一家で、彼自身もそうだと思うのだけれど、後半で主要な人物となる二人は、方やイスラムの僧で、方やユダヤ人ということだ。二人ともきわめて共感的に寄り添うように書かれている。キリスト、イスラム、ユダヤそれぞれが、違いはあっても対立があるという印象はない。ここにボスニアを描く、ということをアンドリッチがどう捉えていたかを知ることができると思う。
ボスニア内戦を経て、今や各民族は居住区を分けられて住んでいるという。ドリナの橋もまた、内戦で虐殺の舞台となった。アンドリッチが描いた民族共存の街は今や絵物語のユートピアになったのだろうか。ユーゴ唯一のノーベル賞作家だったアンドリッチも、ユーゴ解体にともなって、チェコとスロヴァキアでマサリクの評価が分かれているように、微妙な立ち位置になっているともいう。
この物語、様々な民族と様々な宗教の共同体が外部からの勢力が押し寄せてきたときに一体なって協力して対応することにより、町の文化や経済活動を守ろうとします。
橋の建設を邪魔する水の妖精から橋を守るために双子の赤子が生贄にされる話が悲しい。
トゥルコヴィチはイスラム教徒に改宗人の名前。イスラム教徒の支配地域では、歴史的にキリスト教徒やユダヤ教徒らに対し、ジズヤという税金を課した上で信教の自由を認めていることも多かったが、税金の負担を嫌い、イスラム教徒に改宗する者が後を絶たなかったという。オスマナギッチは、トルコ人オスマンです。
現代のボスニア・ヘルツェゴヴィナ第二次世界大戦後の欧州で最悪の民族紛争が起きたボスニア・ヘルツェゴビナで、1995年の紛争終結以来初めて国勢調査が15日まで行われた。ボスニア人、セルビア人、クロアチア人の3民族の構成比が焦点だが、民族的色分けに反対し「ボスニア・ヘルツェゴビナ市民」などと自称する草の根運動も拡大。3民族をボスニアの「構成民族」と定義する憲法を揺るがす可能性も出てきた。10/16毎日新聞記事より。
今年バルカンの旅で、サラエボへ向かくかベオグラードへ向かうか悩んだときに、この本を持っていたらサラエボへ向かったでしょうね。

