ハンガリー映画「A hetedik szoba 」  エーディト・シュタイン の人生 | ・・・   旅と映画とB級グルメ と ちょっと本 のブログ

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ハンガリー映画「A hetedik szoba (1996)」  エーディト・シュタイン (Edith Stein)の人生

監督 ハンガリーの黒澤明 マルタメーサーロシュ

http://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=wLEIbqG6_XY 

上をクリックすると.youtubeで映画の動画を見ることができます。

 ドイツの切手に成ってる人物の伝記

 
この映画はエーディト・シュタインの人生に基づいています。彼女はカトリックに改宗したユダヤ系のドイツの修道女であった。彼女の初期の人生の多くは、率直な学問として過ごしました。そこに、映画によると、彼女はジョセフ·ヘラー(ナチズムを支持する学者)右翼の信念を持つ仲間の教授と反目し合った。
1933年に、ユダヤ人の後にはもはや教えることができなかった、彼女は、Spartan-のようなカルメル会の順で尼僧になりました。しかし、第二次世界大戦まで加熱したときに、ナチスが政権をとった時ヘラーは、彼女似の復讐をしました。彼は彼女のアウシュヴィッツに強制送還した。映画の紹介記事より。

 

彼女はシレジア(当時はドイツ領)、ヴロツワフ(ドイツ語名はブレスラウ)でユダヤ人商人の家庭の11番目の子として生まれた。2歳の時、父が死去。以後、母に育てられる。 190413歳のとき、「自立的人間」を目指して、学校を一旦やめる。ユダヤ教を放棄し、無神論者になった。1913年、夏季ゲッティンゲン大学でエドムント・フッサールに学ぶ(フッサールのアシスタントとしてフライブルク大学までついて来る)。1916年、フッサールの下に「感情移入の問題」の論文を発表し、哲学博士号を授与された。そしてフライブルクで教授陣のメンバーに加えられる。 そのころ、エーディトはカトリックに惹かれ、192211日に洗礼を受け、カトリックに改宗した。夏季休暇のとき、友人宅の書斎にあったカルメル会を改革したアビラのテレサの自伝を読み、改宗を決心したといわれる。そしてトマス・アクィナス等の著書をドイツ語に翻訳した。しかし1933年にナチスによる反ユダヤ主義の法律が成立し、教職を追われることとなる。

 1934年、ケルンにあるカルメル会の修道女となり十字架のテレジア・ベネディクタの修道名を与えられた。彼女はアクィナス、及びフッサールの哲学を結合するため Endliches und ewiges Sein を執筆した。

ナチスの迫害を逃れるため、エーディトはオランダに亡命し、「十字架のヨハネに関する科学の研究」を発表したが、捕らえられてアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られ、194289日、同じく捕らえられていた実姉で既にカトリックに改宗していたローサと共にガス室で殉教(死去)した。ウィキペディアより。

 

彼女は1933年のポストを辞任せざるを得なくなった。教皇ピウスへの手紙の中で教皇ピウス11世、彼女はナチス政権を非難し、公然と政権を非難するために手紙を送った。

教皇ピウス11世は、返事をしなかった。

ナチス政権を批判しなくて、黙認した教皇ピウス11世。と言われています。

 

 

「七番目の部屋」は彼女が19981011日、エーディトはヨハネ・パウロ2世によって列聖された。七番目の部屋で聖人となったことから来ている。こんな歴史的に有名な映画が日本で紹介されていないのは残念です。

 

おじさんは、この映画をブタペストのフィルムアーカイブで見ました。日本ではキリスト関係者しか、知らない人の話です。

ヨハネ・パウロ2世の親友にもヴロツワフ(ドイツ語名はブレスラウ)出身のユダヤ人宣教師がいました。

ヴロツワフは第二次世界大戦中に終戦までドイツ軍が守り続けた要塞都市であり。ドイツ的な町であります。ドイツの古都よりドイツの古都の町並みがが残されておりドイツ人観光客で賑わっています。

      

東西の十字路あった。ヴロツワフは多くの民族の子孫が住み。多様性の文化をもっています。

ここでは、色々な民族の料理を楽しむことが出来ます。

 

やっぱりおじさんの好きなのはポーランド風カツレツです。