凝視 私、身体 (たまに心) が不健康になると、

普段は水道の蛇口を開き続けてるかの如く流している、「他者に対する私の疑念」が止まらなくなる。

1番の対策は、気がついた時点で「手放す」こと。

これが「手放せるもの」と「手放せない」ものがある。


単に「私に対する悪感情」なら、さっさと諦めがつくから、たとえ手放せなくても放置はできる。

今の私は、ある程度の嫌な、不快な感情を手放したり、受け流せなくったって、それを抱え込んでも平常運行できるぐらいの精神力はある。

それが、単なる疑念低度なら、大したことはない。


私の相手に対する疑念が「私に対する気遣い故に、生まれた嘘」だったとしたら?


健康なときなら、

私の疑念  (私に対する気遣いから生まれた嘘)  ごと、相手の話を全部受け止めて、私の疑念は忘れると決断する。


 不健康になると、1度、疑念が湧いたら、疑念でしかないとわかっていても、止めても、止めても、湧き上がって止まらない。

そこまでくると、私の ASD特性「白黒はっきりつけたい病」が発動する。


黒猫しっぽ黒猫からだ黒猫あたま


先月も、別件で「白黒はっきりつけたい病」が発動、体当たりしてきた。

不意打ちすることで相手を測った。


でも、今回の相手は「測りたくない相手」。

私、誰にでも、相手の底を探るわけじゃない💦

自然に見えちゃったものは別として、私は自分の好きな奴は探らない。


でも、去年。

「探らない」と「盲信」するは、違うと気づきた。

探りはしなくても「相手を正しく理解する」ことは、互いのためにも、必要なことだった。


。。。


私、揺れてる。

今は、私の疑心暗鬼の主と会えてないから、疑心暗鬼が収まらないのは仕方がない。

疑心暗鬼を抱えていても、平常運行できるからすればいい。

会えば、正解がわかるはずだから、その時まで放って置けばいい。。。


疑心暗鬼の当事者に会った瞬間。

私が、判断がつかなかったら?

大勢の前なら、放置できる。


会った瞬間が二人っきりの時だったら?

その瞬間、真っ向勝負に出てしまいそうだ‪💧‬

先月と動機は違っても、結局やることは同じ。。。になりそうだ。


私、「動機が違う、真っ向勝負」ってしたことが無い💦

私の真っ向勝負は、ある意味、喧嘩を売っているのと同意語だ。

喧嘩しても構わないと思ってる。


でも、今回は、

気遣いなんかされたくないのは同じだけど、

相手が心配だから知りたいんだ!


気づかいの真っ向勝負って、

どうやってやればいいの?


私の中での「真っ向勝負」の概念は「喧嘩」のイメージしか無い。

今までも心配や気遣いのための「真っ向勝負」はあるにはあった。

でもその時は、嫌われてもいいって思ってたから、ある意味「喧嘩腰」。

けど今回は、「心配」と「申し訳なさ」のみだ。


申し訳なさ故の

「真実を知りたい」「白黒はっきりさせたい」。


こういう気持ちには、なんて名前が付いているの?


体験してないことの言葉は、私はわからない。

知ってる人がいたら、教えて欲しい。


感情も含めて、この世のあらゆるものは、

「名前」が無いと、無いと同じなんだ。

「ソレ」を指し示す言葉がないと、「ソレ」がどういうものなのか? 存在を表現出来ないからね。


例えば、

国によって、虹🌈の色数が違うでしょ?

7色だったり、6色だったり、5色だったり…

認識出来ないものは、無いと同じなんだ。


私は、キリスト教徒でもなんでもないけど、

むしろ、、、 ( ̄黙 ̄)   だけど。

私が伝えたい気持ちを、伝えるのに引用が必要なものがあれば、きちんと引用したい。


『新約聖書』

「ヨハネによる福音書」(冒頭部分)


初めに、言葉があった。

言葉は神とともにあった。

言葉は神であった。


言葉が、人間の知性を生み出し育てたんだ。

「ソレ」を指し示す言葉がないと、「ソレ」について、人に伝えることも、考えを深めることも出来ないだろう?

「名前」というものは、現代人がが思っている以上に、重要なものなんだ。


今、名前がつかない、感情に揺れてる。

運が良かったら、数日後に命名できるか、教えてくれる人に逢えたらいいな。