両手を打てば音がある、では片手に何の音声があるかという禅の公案「隻手音声(せきしゅおんじょう)」について人に聞かれた。
どう答えると正解なんですか? こういう風に答えればいいんでしょうか? といったことをその方が仰るので、パズルやジョークのような、気の利いた解答や頓智を求めないのが公案ですよと申し上げたら、そうかなるほどと、納得して下さった。
ただ、公案というのは周知の如く、インド仏教発祥ではなく中国仏教の創案になるもので、禅僧の方たちですらこれを解説しようとすると、ついつい、理屈を捏ねたり、知識をひけらかしたりになってしまいがちな、諸刃の剣だと私は思う。
ところで話は全然違うのだけれど、片手に何かを持っていて合掌できない時にもう一方の手だけで礼をすることを「半掌」などと呼び、世間ではこれを「片手合掌」とか「片手拝み」などと呼んでいるようだ(両手を合わせていないので、厳密に言えば「片手合掌」という言葉は相応しくないが)。
私は合掌という作法が好きで、片手に物を持っている時でも出来る限りは半掌する。両手が空いていて合掌する時には、状況にも依るけれど、なるべくならば金剛合掌を行うように心掛けている。合掌は心を調えるための、有効な手段だからだ。
おしまい。
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日本人上座部僧・三橋円寒ヴィプラティッサ比丘が訳された、
タイの高僧プッタタート比丘の「仏教人生読本」「観息正念」を
「ホームページ アジアのお坊さん 本編」上で公開しております。