日本における旅僧の歴史 覚え書き | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

私がお坊さんになったのは、昔話に出て来るような旅のお坊さんに憧れたからなのだけれど、さて、よく考えてみれば「旅のお坊さん」なるものは、いつ頃から日本に存在するのだろうか?

 

「昔話に出て来る」とは言っても、その昔話が語られた時点における「昔」というのは、一体いつ頃なのだろう。

 

そもそも仏教の日本伝来(公伝)は西暦538年で、日本最初の僧侶である善信尼の出家が西暦584年だ。

 

行基が受戒したのが西暦691年、その市井での活動が権力の目に余って禁圧されたのが西暦717年、その後、体制側が行基を取り込み、行基に「大徳」の称号を与えたのが西暦738年。

 

一方で、僧侶を律する国の法律である僧尼令は701年施行の大宝律令に含まれていたとされる。実際の大宝律令は散逸し、その後、西暦718年(もしくは757年に完全成立)に施行された養老律令によってその内容が伺えるのだが、それを見ると当時、正式な得度を受けない私度僧たちが、托鉢や山林修行をしていた様子が伺える。

 

西暦822年前後の成立とされる「日本霊異記」の著者・景戒も私度僧であり、「霊異記」に私度僧や乞食僧がたくさん出て来ることは、よく知られている。

 

そのずっと後の西暦1100年前後に成立した「今昔物語集」にはもはや普通に旅僧が頻繁に登場するが、「霊異記」が原典である同じ話であっても、「今昔」の作者は私度僧という表記を使っておらず、その点に全く関心を示していない。

 

この時代の前後くらいから、高野聖や念仏聖といった廻国聖たちが全国を旅しながら活躍をし始めたと思われるが、その後、室町時代の謡曲には主人公として「諸国一見の僧」が頻繁に登場するし、さらに江戸時代になると、今日我々が考えるのとほぼ同じスタイルの旅僧が、浄瑠璃や膝栗毛や馬琴などの文学作品の中にごく日常的に描かれるようになる。

 

そして、明治以降の泉鏡花の様々な作品にたびたび登場する行脚増は、そうしたスタイルの旅僧が、さらに近代的自我を持った存在として描かれている。

 

分からないのは僧尼令以前の西暦600年代頃にどのくらいの数の僧侶や私度僧が、単なる托鉢行や山林修行だけでなく、全国を旅していたのかという点なので、古代の僧制の研究書などを、これからゆっくり読んでみようと思っているところだ。

 

 

※「昔話に出て来る旅のお坊さん」の類話中、最もよく知られているのは、「そのお坊さんは実は弘法大師でした」というオチだと思うが、実在の空海は高野山を開く直前、42歳の時に各地を行脚したとされ、その道中に様々な大師伝説を残している。もしもそれが旅僧伝説の典拠の一つだとすると、実在の空海42歳の年は西暦815年だ。

 

※慈覚大師円仁の「入唐求法巡礼行記」(西暦847年頃までの日記を含む)は、お坊さんによる実際の旅の詳細な記録だ。

 

※西行の死後、程なくして編纂された「西行物語」(西暦1240年頃?)は、実際の記録ではないものの、西行が諸国を旅しながら歌を詠む様子が、細かく描写されている。

 

 

 

                 おしまい。

 

※画像は西暦1675年の「南都名所集」より。

 

※旅とアジアとお坊さんの三題噺 

「ホームページ アジアのお坊さん 本編」もご覧ください。