なぜか今さら世間でよく取り沙汰されている「四住期」は、ブッダの在世前後から南アジア(インド)で唱えられていた考えだが、「不惑の年」などでお馴染みの「論語・為政篇」の孔子による人生区分も、東アジアでは日本も含めて、古来よく知られていた。この両者の年齢区分は、ある程度、重なり合っているようにも見える。
学生期
十有五にして学に志し、三十にして立つ。
家長期
四十にして惑わず。
林住期
五十にして天命を知り、六十にして耳順う(みみ、したがう)。
遊行期
七十にして心の命ずるところに従って矩を踰えず(のりをこえず)。
何となく納得できる部分もあるけれど、仏教徒としてはそこに留まっていてもいけないのでは? とも思う。
「ああ、短いかな、人の生命よ。百歳に達せずして死す。たといそれよりも長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。」
ー スッタニパータ 804 (岩波文庫「ブッダのことば」181頁「老い」)より
「この容色は衰えはてた。病いの巣であり脆くも滅びる。腐敗のかたまりで、やぶれてしまう。生命は死に帰着する。」
ー ダンマパダ 148 (岩波文庫「真理のことば」31頁「老いること」)より
諸々のつくられた事物は実に無常である。生じ滅びる性質のものである。それらは生じては滅びるからである。それらの静まるのが、安楽である。」
ー ウダーナヴァルガ 1-4 (岩波文庫「感興のことば」161頁)より
※画像は四門出遊(生老病死)を描いたネパールの絵葉書です。
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