天狗の無常偈 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

インドの天狗が仏法を妨げようと思って中国に来たら、海の中から「諸行無常 是生滅法 生滅々已 寂滅為楽 」の声がする。源流を確かめようと声のする日本へ渡り、瀬戸内海から淀川、宇治川、琵琶湖へ至るとさらに声は高くなった。比叡山の横川へと声を辿ると川の流れを護る一人の神童が、ここは比叡の僧坊の便所の下流だと教えてくれる。トイレの下水ですら甚深微妙の仏法を語るなら、それを妨げるなんてとても出来ないと思って天狗は仏法に帰依したというのが、今昔物語集巻20の1に見える話。

 

 

面白いお話なので、時々、インターネットなどでも解説して下さっている方をお見受けするが、私としては仏法の神髄を表す偈文として、ここに無常偈が出てくることを嬉しく思う。

 

大乗仏教では大乗涅槃経に見えるこの偈文は雪山偈とも呼ばれ、日本のいろは歌はこの句を意訳したものだという説が、今昔物語の注釈などにも載っていたりする。
 
「諸行無常…」の後半に「如来証涅槃 永断於生死 若有至心聴 当得無量楽」と続くこの文は、天台宗の「例時作法」にも使われていて日常よく用いられるし、また日蓮宗や浄土真宗でも、無常偈は重要視されるのだそうだ。
 
ただ、現在の天台宗では、概ね死者の供養に関する場面でしか無常偈を使用しないのだが、私はこの偈文が最も簡潔に仏教の要諦を表していると思うから、常に秘かに唱えるようにしている。
 
テーラワーダ仏教でも無常偈の原文であるパーリ語のお経は死者の供養に際してよく使われる。下の画像は英文対照のパーリ語経典の当該ページ。
 

 

 

「anicca…」から「vupasamo sukho」までの前半4行が「諸行無常 是生滅法 生滅々已 寂滅為楽 」という意味で、岩波文庫の原始仏典シリーズで言うと、「感興の言葉」「神々との対話」「悪魔との対話」「ブッダ最後の旅」などの原始仏典にも、この無常偈はしばしば出てくる。
 
それらの箇所にはブッダの死に際して帝釈天インドラがこの句を唱えたという場面もあるのだが、実際のところ、無常偈はブッダ自身が説いた最重要の偈文なのだと思う。
 
ちなみに余談ながら、漢訳大般涅槃経の無常偈の後半、「如来証涅槃 永断於生死 若有至心聴 当得無量楽」は、「如来は生死を乗り越えて涅槃に達した、我々も一心に教えを聞くならば、無量の安楽に達するだろう」という意味であり、一方でパーリ語の無常偈の後半4行の「sabbe satta maranti ca…」は「全ての生き物は過去にも死んだし、今も死ぬし、将来にもまた死ぬだろう、このことはまた必ず我が身にも起こるだろう」という風に、死を観察するための偈文であり、漢訳とは対応していない。
 
いずれにしても、インドから来た天狗さんはこの無常偈にいたく感じ入り、やがて天台座主に生まれ変わって、仏法を遍く布教したという。  
 
 
      
                           おしまい。          
                         
 

 

 

※これも余談ながら、インターネットで「如来証涅槃 永断於生死 若有至心聴 当得無量楽」と検索すると、いくつかの石碑や笠塔婆に刻まれたこの句の画像が上がって来るのだが、最後の句を「当得無量楽」ではなく、「常得無量楽」であると解釈しているサイトがたくさんあり、わざわざ「常に無量の楽を得る」と訓み下してあったりする。
これは「当」の旧字である「當」が判読できなかった方たちの誤りで、確かに石碑の画像を見ても「常」という字に見えてしまうくらい、石に刻まれた字が摩滅しているが、正しい訓み下しは「当(まさ)に無量の楽を得るべし」だ。