徒然草の第123段に最低限の食・衣・住と薬以外はみな生活に余分のものであるということが書かれていて、これは仏教における「四依法」に基づいた考えなのだが、インターネットなどでは、この123段の内容が仏教の教えに基づいているということを説いていない方が多い(兼好法師は「衣食住」でなくて「食衣住」の順番で書いている、と皆さんインターネットに書いておられるが、これは四依法が「食衣住薬」の順序で説かれるからだ)。
一つには兼好法師の文章が素晴らしいために、一般の方が衣食住に関する処世訓としてこの段を読んでも興味深く読めるということもあるが、どちらかと言えば、この「四依法」が現代日本仏教では余り強調されていないこともまた確かだと思う。
食事は托鉢で得た食事、衣は糞掃衣、住まいは樹下か石窟・庵、薬は牛の尿で作った物というのが四依法の本来の意味であり、今でもテーラワーダ仏教ではこの4つの依るべき事柄を、日々憶念する決まりになっている。
現代の日本仏教の僧侶の生活と掛け離れているせいもあってか、各宗派によって多少の差があるが、知識として日本の各宗派に伝わっている程度で、今ひとつこの「四依法」は一般に知られていないように思う。
さて、私は今、テーラワーダ仏教のアーナパーナ・サティ瞑想を説いたプッタタート比丘の「観息正念」PDF版と、天台宗や禅宗の坐禅の基礎となった天台大師智顗の「天台小止観」を並行して読んでいるのだが、どちらにも最初の方に、衣食住を始めとして、坐禅瞑想止観を行うに当たって事前に調えるべきことがらが事細かく述べられている。
「薬」を「健康」と解釈するならば、出家か在家か、テーラワーダか大乗かに関わらず、「食衣住薬」を調えることは、現代日本の仏教徒にとっても、十分に大事なことだ思う。
おしまい。
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