お坊さんの人柄 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

明日6月4日は「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」というお言葉を遺された伝教大師最澄が亡くなられた山家会の日なのだが、さて、日頃、直接間接に何かとご教示頂いている「タイ佛教修学記」の管理人I氏が先日、「私が「おだやかなこころ」を大切にしている理由」というタイトルのブログ記事を書いておられたので、以下、抜粋させて頂くことにする。
 
「私は、常に心穏やかでありたいと思っている。」
なぜなら、私は、まずは穏やかになることが瞑想の第一歩であると思うからである。」
瞑想と日常生活とは、一体のもの、あるいは両輪でなければならないと思う。」
私は、還俗後、日本での生活の中で「瞑想」と「それ以外の生活の場」との“差”に悩んできた。」
在家者として一般社会のなかで生活をしていくとなるとどうだろうか。」
「それぞれの生活の中で、それぞれの仕事の中で、瞑想を実践していかなければならない。」
「あれほど懸命に瞑想実践へ時間を費やし、取り組んできたのにも関わらず、いとも簡単に、すぐ元の状態へと戻ってしまうのだから、虚しいとしか言いようがない。」
私の生活の中において難しいことは削って、削って、削った結果、「いかに穏やかな心を保つのか」というところに辿り着いた。」
 
お坊さんにとっても、一般の方にとっても、結局人間にとって最も大事なことは「人柄」だと考えている私には、正に我が意を得たりで同感だ。
 
私もI氏と同じくタイでテーラワーダ仏教の比丘として修行後に、完全な在家ではないとは言え、日本のお坊さんの生活に戻ったものだから、I氏と同じ思いを持っていたので、その結果、出家在家に関わらず、日常生活における「慈悲」を根本とすべきだという考えに辿り着いたことも甚だ頷ける点であるのだが、ところで僭越ながら、私は以前、このブログにこんなことを書かせて頂いている。
 
「よく思うことなのだが、たとえお坊さんが皆、同じ理念に基づいて修行し、我を捨て、慈悲を心がけ、温厚な人柄を目指していたとしても、本来、持っていたその人の個性は、その修行の進み具合や、修行後の人格に、個人差を与えるのではなかろうか?
阿羅漢となり、悟りを開いたとされるブッダの直弟子たちですら、仏典によれば様々な個性を持っていたようだから、まして現代のお坊さんたちならば、まじめで温厚だった方はそのような、豪快で明るいタイプの方はそのような、それぞれ、お坊さんになるのは当然のことだろう。
ただし、どんな性格だから修行に適しているということは、決して言えなくて、修行の完成は、性格や環境だけでなく、その他のいろんな条件の集積によって決定すると思う。」
 
様々な理由から、私は伝教大師は生まれつき優しくて温厚なお人柄であったろうと想像するのだが、だがしかし、我々は生まれついての性格に関わらず、また出家か在家かにも関わらず、瞑想によって、慈悲深く穏やかになるべく修行せねばならないと思う次第だ。