プラユキ・ナラテボー師の最新刊「仏教サイコロジー」の話 | アジアのお坊さん 番外編

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旅とアジアと仏教の三題噺

日本人上座部僧のプラユキ・ナラテボー師と禅僧の藤田一照による対談「仏教サイコロジー」をプラユキ師ご自身から贈呈して頂いて、はやひと月近く経った今、ようやく読み終えることが出来た。

プラユキ師より10歳も年長で、今を時めく藤田一照師ですらが、この対談の中では、自然体でありつつも明確な仏教観と、それに基づく方法論を踏まえて少しもぶれないプラユキ師に少しずつ感化され、納得し、影響されて行く様が、読者である我々にも手に取るように感じられて、私にはその部分がまず、とても興味深かった。

それに対してプラユキ師は、慈悲を以て藤田師に応え、藤田師の長所を認め、かつ毅然とご自分のご意見を述べておられるところがまた、とても清々しい。

さて、この本の中で特に印象に残った部分の要旨を、以下にまとめさせて頂くことにする。

20頁 プラユキ師にとっては、日常が本番。瞑想は練習。

22頁 「この世はあるがままですべてが完璧だ」的な言説の下に、現実の問題から逃避するタイプの仏教者が存在する。

93頁 プラユキ師は「慈悲の瞑想」を勧めていない。

140頁 四念処観について。

159頁 「職業や家庭を持った経験のないプラユキ師に、そうした問題を抱える人たちの苦しみが分かるのか」と言われたことはありませんかと問う藤田師に対し、そうした経験のあるなしが問題の本質ではないので、そう言われたこともないし、また仏法によってそうした問題にも的確に対処できるとプラユキ師。
同じ質問に対して答えに窮する日本の若いお坊さんたちがおられるならば、是非このページの前後を読んで頂きたいものだと思う。

253頁 「苦」の本質について。
苦しみとはあくまで結果として起こる症状であるとプラユキ師。

355頁 まず自分が救われないことには他者を救えない、だから自分の修行が先だ、いや、その考えは「小乗的」だ、自分を後にしても人を救うのが仏教であり、「大乗的」な慈悲だ、みたいな議論があるが、プラユキ師はご自身の下で修行する方たちに対し、「見切り発車で良い」(修行半ばでも他者に対して慈悲を持ち、法を説き、救ってあげるべきだ)と仰っておられるそうだ。ああ、何と簡潔なのだろうか。

藤田師のために一言申し添えておくが、この対談がなされる半年ほど前、私がプラユキ師とお会いした時には既に、今の日本の仏教ブームの中にも玉石混交、いろんな方が活躍されている中で、藤田一照師はとても良い考えの持ち主だということを、プラユキ師はしきりに仰っておられたものだ。だから上記のような感想は、私が単なるプラユキ師贔屓で申し上げている訳ではないことが、分かって頂けるかと思う。それでは「仏教サイコロジー」に興味を持たれた皆さま方は、是非ご一読を!