馬耳東風な話 | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

馬耳東風という言葉は、どちらかと言えば、何を言っても知らぬ存ぜぬといった態度についての、良くない意味で使われるのが普通なのかも知れないが、私がよくお手伝いに行くお寺にはお坊さんも在家の職員さんもたくさんおられて、正に悲喜こもごも、有象無象が喧々諤々で、いろんな言葉や感情が私の周りを渦巻き通り抜けるのだけれど、馬耳東風、馬耳東風と思ってやり過ごしている。

無責任な意味での無関心ではなく、仏教的な意味において心を乱さないようにと心掛けつつ、例えばこんな経文を、秘かに思い浮かべてみたりする(訳文は全て岩波文庫版の中村元訳によりました)。


他人がことばを極めてほめたりそしったりしても、水浴場における柱のように泰然とそびえ立ち、欲情を離れ、諸々の感官をよく静めている人、ー諸々の賢者は、かれを「聖者」であると知る。
(「ブッダのことば スッタニパータ」214)

世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、-これがこよなき幸せである。
(「ブッダのことば スッタニパータ」268)

悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮らそう。
(「真理のことば ダンマパダ」198)