「扇子が筆になり手紙になり、キセルになり箸になり、刀や槍、鉄砲、提灯、さらに、舟をこぐ櫓になり、棹になり、お盆になり、銚子になり、なんでも扇子と手ぬぐいであらわします」 桂米朝「落語と私」(文春文庫)
扇子というのは日本発祥で、中国の扇も日本からの逆輸入らしい。アジアに昔からあったのは団扇(うちわ)の方で、熱帯の暑さを和らげるべく、インドから東南アジアに掛けて、古代から現代に至るまで、団扇はごく普通に使用された。
仏教に関することで言うと、例えばタイ仏教において、パーリ語を習得する学僧には等級に応じてターラパットという標示扇が授与されるが、死亡ないし還俗した時は返還しなければならないそうだ(佐々木弘伝師の説明を参考にさせて頂きました)。タイで法要などの後に法話を行う比丘(僧侶)が、ターラパットで顔を隠して説法するのは、よく見る光景だ。
日本の僧侶も持物(じぶつ)として普段は檜扇を使い、法要などでは先の開いた中啓という扇を持つが、これは元々、宮中における公家の使用に倣ったものだ。
日本の扇子は、団扇とは全く別の経緯で平安時代頃に発明されたものだから、日本において扇子は僧侶のみならず、現在でも茶道家、噺家を始め、広く和服一般を使用する人々が使い、また、ごく普通に涼を得るための道具として、現在に至るまで日本人に親しまれている。
茶道、落語などにおいて、扇子には独特の作法や象徴的意義があるが、お坊さんの持つ中啓や檜扇も勿論、威儀を調えるという意味で、大事な道具ではある訳だ。
さて、お寺と扇子と言えば、近頃、こんなことがあった。
法要の前に、夏のこととて参拝者の方が、扇子でパタパタとご自身の身体を扇いでおられた。夏とは言っても、エアコンの入った室内での話だから、これは如何なものか。例えば観劇などで客席の方が扇子を持って身体を扇ぐのはどうかと言えば、少なくとも比較的小さめで演者との距離が近い会場の場合、私なら演技が始まった時点で、扇子の使用を止めるだろう。
ましてやお参り事においては、葬儀であれ、法要であれ、僧侶がお話やお経を始めた時点で、やはり「扇ぐ」という動作を止めるのが、正しい振る舞いではなかろうかと思ったので、ちょっと考えた後で、他の注意事項と共に、扇子も辛抱して頂くように、お願いさせて頂いた。
「扇子」というものは、お坊さんも持物として使用するけれど、そう言えばそれで身体を扇ぐということはしないなあと思った瞬間に、以上のようなことが胸に去来した。
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