あるお寺でお性根入れ(開眼供養)を頼んでくる人が皆、お布施の袋に「お正念料」と書いてくる。
お性根入れの「性根」と「正念」を間違っているのだと思うが、もしや、その地域ではそういう言い方をするのかもと思って、あんな言い方はしませんよね? あれは間違いですよね? と、その地域の他宗派のお坊さま方が集まる会合でお聞きしてみた。
そうすると、お坊さま方というのは融通無碍で慈悲に富んだ方が多くて、いや、「お正念」などという言い方は確かにしませんが、でも、あながち間違いと言い切るのも、みたいに仰る方が多かった。
そう言えば最近、別のお寺のお布施の袋に「共養料」と書いて来た方があって、「供養」の「供」の人偏が抜けているのだと思うが、これも何となく意味が通じそうな間違いではあった。
ところで、「供養」という言葉の原義については、今年の初めにも書かせて頂いたことがあるのだが、「供養」に「お」が付いて、「お供養」という言葉となると、またちょっと違ったニュアンスが含まれて来る。
例えば本山の道場で寺の子弟が修行中に師僧や知人のお寺から届けられる差し入れを「お供養」と言い、本山から、「近年、益々、お供養が過分・華美になる傾向があり、皆様の自粛を云々」みたいなお達しが、各お寺に届いたりすることもある。
この場合の「お供養」は、四国遍路や巡礼時における「お接待」と、ほぼ同じニュアンスの言葉だが、例えばお寺へのお供えは、全てまず仏さまへお供えするというのがお寺というものの大原則であるとしても、中にはこちらは仏さまへ、こちらは皆様ですぐどうぞ、と言われて二つの品物を渡される場合があるとする。
何と言われた場合でも、一度は必ず仏前に上げてから、というお寺さんもあるだろうけれど、仮にもしそうしなかった場合であっても、お寺さんへの差し入れはすべて「お供養」なのであり、一般社会の「差し入れ」とは別物なのだと思う。
「お供え」と言われても、「差し入れ」だと言われたとしても、「お供養」をした瞬間に、「お供養」した人には功徳が発生するのだから、私はどの場合であっても、「お供養を有難うございます」とお答えさせて頂くことにさせて頂いている。
だからやっぱり「供養」と「回向」の概念は密接不可分なのであり、と言うことはつまり、共に養う=「共養」という文字も、あながち間違いとは言い切れないのかな?
おしまい。
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