若気の至りとしか言いようのない、恥ずかしい昔の自分の発言を、今でも折に触れ思い出しては情けなくなる、という経験は、誰しもお持ちだろうか?
自分がお坊さんになって、そう間もない頃には、そんな思い出が山ほどあるのだが、さて、何度か書かせて頂いていることの一つに、もう還俗された方なので、今回は匿名にさせて頂くが、当時、名の知られた日本人テーラワーダ僧だった方に、バンコクのある日本人信者の方のお家で、初めてお会いした時のことだ。
テーラワーダ修行においても全く若僧だった私に、その方が気を使って話題を振って下さったのだと思うが、テーラワーダのヴィパッサナ瞑想とあなたの日本での宗派である天台宗の坐禅止観は、よく似ているんじゃないんですか? と、そのお坊さんが仰った。
その時、私は、いいえ、天台宗で坐禅をそこまで追及している人なんていませんからと、甚だ愛想のない答えをしてしまったことだ。考えていること自体の大元は、今でもそんなに変わっていないのだが、もう少し言い様があっただろうにと、今の私なら思うのだけれど。
ところで、もちろん天台宗のお坊さんの中にも、天台小止観が説くところに従って、一心三観の真理を見極めるべく坐禅修行なさっておられる方もいるのだろうけれど、寡聞にして私は知らない。
但し、止観作法に則って数息観や随息観で身体を調え、呼吸に集中して心の安定を得ている方なら、もちろんたくさんおられるし、或いはそれに飽き足らず、禅宗の門を敲いて参禅されている天台宗のお坊さんを、私は複数、存じ上げている。
さて、数息観、もしくは随息観で呼吸に集中している段階というのは、アーナパーナ・サティ瞑想で言えば、身体・感情・心・法の4段階の内の、一番最初の身体に対する観察及び集中に相当すると思う。もう少し進んでいるとしても、第2段階の感情に対する観察と集中に該当するレベルで、もちろんそれでも十分に仏法を体感できる貴重な実修ではあるのだが、アーナパーナ・サティにはまだその先がある。
ちなみに、この4段階に対する観察を四念処と言い、伝統的な漢訳では「身・受・心・法」と表現し、4段階がさらにそれぞれ4つの階梯に分かれていて、全部で16ステップとなるのが、アーナパーナ・サティ瞑想だ。
この「身・受・心・法」などという言葉、仏教書や仏教辞書には出て来るが、活字で読んでも全然意味が分からないのに、実際に実修すれば、誰でもすぐに意味が理解できるのだ。天台宗の止観作法にしても、アーナパーナ・サティ瞑想を実践すれば、断然、理解が進むのにと思う。
今にして思えば、「テーラワーダのヴィパッサナ瞑想と天台宗の坐禅止観は似ているのではないか」という言葉にも、とても含蓄があったと思う次第だが、若気の至りの自分の発言が、相手の方が仰った言葉を長い年月の後まで私に記憶させることになり、ここ数年、何度もブログに書いては、その時々の自分のレベルに応じて修行や思索を深める糧となっているのだから、あの恥ずかしい思い出すらも、やはり貴重な仏縁だったと言えるのかも知れない。
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アーナパーナサティ瞑想坐禅16ステップの詳細な解説書である「観息正念」、
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タイ プッタタート比丘 「仏教人生読本」「観息正念」改訂CDーR版 頒布のお知らせをご参照下さい。
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