「月間住職」(興山舎)2015年7月号のアンケート結果が面白い。
各宗派多数の寺院に対しての設問が、例えば「(死者の)お迎え現象はあると思うか」とか「どうして普通の人が聞いても分からないような漢文のお経を上げるのか? と檀信徒に聞かれたら、何と答えるか」といった、なるほどと思わせる内容だ。
お迎え現象に関して、多くのお坊さんが「ある」とか「体験したことがある」などと答えておられるのには、驚きと共に当惑を禁じえないが、それよりも気になったのは、一般の方が聞いても理解できない漢文のお経を読むことについてだ。
これも多くのご僧侶が、漢文のお経には呪力がある、分からないからこそ有り難い、一般の人には分からなくても、(お葬式や年季法要の時)死者には理解できている、などと回答しておられて、そろそろ世間の人が、単純に意味の分からないお経を有り難がらなくなって、僧侶がただ儀式的に読経しているのはおかしいじゃないかと思い始めている昨今だからこそ、わざわざ業界紙がこんな質問を設けてくれている訳だろうに、あらま、多くのお坊さんたちは、一般の方が邪推している通りの気持ちで読経していただけなのかいな。
もちろん、そうでないお坊さんの回答もたくさんあって、出来れば是非実際に紙面を見て頂きたいのだが、訓み下しや和訳のお経で葬儀や法要を行っているお寺も多々あるようだが、だからと言ってその場合、必ずしも檀家さんから手応えがあるとは限らないといった答をされている方もある。
ちなみに「一般の方が僧侶が上げる漢文のお経を聞いても意味が分からない」という状況は、日本以外の大乗仏教国でも有り得る状況なので、これが日本仏教だけに見られる問題点の一つだとは、一概に言えない。
また、テーラワーダ仏教国におけるパーリ語のお経も、すべての人がその内容を理解できる訳ではない。故・中村元博士が、よく岩波文庫の解説で、この経文を聞けば今でも南アジアの人は直ちに理解できるのである、みたいなことを書かれているが、それはテーラワーダ仏教国の国民が、その経文の意味を誰でも知っているという意味であって、彼らがパーリ語の文法を理解してパーリ語の読み書きや会話が出来るという意味ではない。
そして、テーラワーダ仏教国においても、多くの人がパーリ語のお経に呪的効果を期待している。だから同じような問題は、大乗、テーラワーダを問わず、世界中の仏教国に同様に存在する訳だ。
世界中でも同じことだから、日本のお寺が意味の分からない漢文のお経を上げていてもいいじゃないかと言っている訳ではもちろんない。漢文のお経を上げることに意味があるとすれば、それは現時点における日本仏教のテキストとして、それが最も重要であり、優れているからだ。
だから、そのまま読んで意味が分かるほど、僧侶も、聞いている人も、しっかり勉強できているのが何よりだ。その上でさらに噛み砕いた内容や、その実際生活への応用を、僧侶は法話で説くべきだ。
和訳のお経が悪いとは言わない。訓み下しや和訳を正式な作法や次第に組み込もうと努力する宗派もたくさんあって、それ自体は悪くない。
ただ漢文のお経に比べて、遥かに蓄積が少ない分、まだまだその作業は過渡期にあるため、和訳では荘厳さに欠けるとか、日本語には漢字ほどの力がないといった回答が、今回のアンケートの中で、ご僧侶たちからも寄せられるのだろう。
仏法を伝えるために十分な内容になっているのなら、和訳のお経でも構わないと私は思う。ただしそれだけのレベルに至るまでには、とりあえず試しにやってみよう的な試行錯誤ではない、各宗派の不断の努力と決意が必要であるに違いない。
そんな時代が来るまでは、しっかり漢文のお経の意味を理解し、噛み砕いた日本語でしっかりと仏法を伝えて行きたい。
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