
・いろは歌の内容が、大乗涅槃経に見える無常偈(むじょうげ)、 もしくは雪山偈と呼ばれる「諸行無常 是生滅法 生滅々已 寂滅為楽 」の句を意訳したものだという説が、世間一般では有名だ。
・「諸行無常…」の後に、「如来証涅槃 永断於生死 若有至心聴 当得無量楽」と続くこの文は、天台宗の「例時作法」にも使われており、また日蓮宗や浄土真宗でも、無常偈は重要視されるのだそうだ。
・上の画像は英文対照のパーリ語経典から採った、現在、テーラワーダ仏教でもよく使われる無常偈を載せたページ。「anicca…」で始まる前半4行が「諸行無常 是生滅法 生滅々已 寂滅為楽 」という意味で、岩波文庫の原始仏典シリーズで言うと、「感興の言葉」「神々との対話」「悪魔との対話」「ブッダ最後の旅」などにも、この無常偈が出てくる。
・それらの箇所には、ブッダの死に際して帝釈天インドラがこの句を唱えたというシーンと、インドラ神がそれとは別の時に、アヌルッダ長老との絡みでこの句を唱えたという2系統の伝承が含まれており、両方の伝承が微妙に重なり合って錯綜しているようにも見えるが、実際のところ、無常偈は、ブッダ自身が説いた最重要の偈文なのだと思う。
・漢文の無常偈の後半は、「如来は生死を乗り越えて涅槃に達した、もし我々も一心に教えを聞けば、無量の安楽に達するだろう」という意味であり、一方でパーリ語の無常偈の後半の「sabbe satta maranti ca…」は「全ての生き物は過去にも必ず死んだし、今も死ぬし、将来にもまた死ぬだろう、このことは必ず我が身にも起こるだろう」という風に、死を観察するための偈文だ。
・本来、現在の天台宗やテーラワーダ仏教では、概ね死者の供養に関する場面でしか無常偈を使用しないのだが、私はこの偈文が簡潔にして最重要な仏教の要諦を表していると思うから、こっそり常に唱えている。
・インターネットで「如来証涅槃 永断於生死 若有至心聴 当得無量楽」と検索すると、いくつかの石碑や笠塔婆に刻まれたこの句の画像が上がって来るのだが、最後の句を「当得無量楽」ではなく、「常得無量楽」であると解釈しているサイトがたくさんあり、わざわざ「常に無量の楽を得る」と訓み下してあったりするが、これは「当」の旧字である「當」が判読できなかった方たちの、誤りではないかと思う。石碑の画像を見ても、確かに知らなければ「常」に見えてしまうくらい、字が摩滅しているのが分かるから面白い。
※正解は「当(まさ)に無量の楽を得るべし」です。
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