「手品」と「推理小説」の話 | アジアのお坊さん 番外編

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 子どもの時に手品が好きだったのだが、それを人に言う時に、「手品」と言うと子どもっぽく聞こえるので、今は「奇術」と言ったり、書いたりするようにしている。
 
 「手品」も「奇術」も、字面や語源をよく考えたら、どちらにしても古めかしい言葉だし、昨今のテレビなどでは、「マジック」という言葉の方が、よく使われているかも知れない。
 
 さて、同じように、子どもの時、江戸川乱歩が好きだと他人に言う時は、必ず「大人ものの乱歩です」と付け加えていたものだが、どうせ興味のない人には、何のことか分からなかっただろうにと、今は思う。
 
 小学生の時、教室で何かの出来事があって、担任の先生に、「これは奇々怪々な事件やな。まるで、おまえがいつも読んでる金田一耕介さながらやな」と言われて、違う、私が好きなのは明智小五郎なんだと、みんなの前で悔しく思ったことを、今も覚えている。当時は横溝正史の方が、大人向けのしっかりしたミステリだと思っていた人が多かったのかも知れない。
 
 だから、乱歩の少年ものも大人ものも、共に等しくリスペクトすべき古典的名作だという認識が定着し、趣味の観点からの評価も、学術的な見地の研究も、ここ20年くらいの間に格段に進歩したのは、とても喜ばしい限りだ。
 
 新本格ミステリの時代を経て、最近では昔ながらの謎とトリックに満ちたミステリを、普通のミステリと区別するために、強いて「探偵小説」と呼んだりもするが、これも私が子どもの頃は、お前の読んでる江戸川乱歩なんて、推理小説じゃなくて探偵小説だなどと、否定的なニュアンスで言われたものだ。
 
 今は反対に、「推理小説」と言うと、社会派ミステリや、軽めのトラベル・ミステリの方を指す場合もあるが、これについても混乱を避けるために、私はなるべく「ミステリ」という言葉を使わせて頂いている。
 
 「探偵小説」と「推理小説」と「ミステリ」の関係は、ちょうど「手品」と「奇術」と「マジック」の関係に似ている気もするが、実を言うと、子供の時に馴染んでいた「推理小説」と「手品」という言葉を見たり聞いたりした時が、本当は一番、胸がときめく。
 
 
 
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