煩悩という言葉は、日常的に悪い意味で使われることが多いのに、「子煩悩」という言葉だけは、多少の揶揄を含む場合もあるにしろ、どちらかと言えば良い意味で使われることが多いのはなぜなのか?
言い方を変えると、子どもをかわいがるのが良いことであるのならば、なぜそこに、「煩悩」という悪い意味を表す単語が使われているのだろうか?
江戸川柳にも「子煩悩」という言葉は出て来るので、この言葉が最近に出来た現代語でないことは確かなのだけれど、どのくらい古くからこの言葉が使われているのかは、寡聞にして知らない。とりあえず江戸川柳の中でも、この言葉は男親の描写として使われていることが多い。
子どもをかわいがりすぎるにしても、反対に子どもの存在を重荷に感じるにしても、親にとって子どもの存在が煩悩であるという考えは、例えばブッダがシッダルタ王子と呼ばれて在家にあった時、出家直前に生まれた我が子を、出家の邪魔をするという意味で、ラーフラ(障碍)と名付けて嘆いたというエピソードを始め、兼好法師も徒然草の第6段に、「子といふものなくてありなん」として、子孫を不要だと考えた人々を列挙しているし、諺にも「子は三界の首枷」とあるように、決して珍しいものではない。
子どもをかわいがるのは自然な人情でもあり、生物学的な本能でもある訳だから、それはそれで結構だけれど、度を過ぎるとそれは執着となり、苦しみを生むのだから、少し加減を間違うと、ほら、もうその先には、煩悩の地獄が待ち受けていますよというお知らせが、「子煩悩」という言葉なのではないのかな?