「道場」という日本語は、現在では武道場を指すことが多いけれど、本来これは仏教の修行道場を指す言葉であって、精神性を重視する日本の武術が、この言葉を取り入れたものだ。仏教の経典、法則、密教の儀軌などにおいて、道場という言葉はしばしば出て来る。
ところで、「娑婆」という仏教用語の反対語は何かと聞かれたら、一般的な答は「浄土」だろうか。苦しみの多い人の世、この現実世界という意味の「娑婆」や「濁世」や「穢土」に対する苦しみのない仏の世界は、やはり「浄土」だ。
近松の「曽根崎心中」の出だしに、「げにや安楽世界より、この娑婆に示現して」とあるのは、謡曲「田村」からの借用だから、安楽世界すなわち仏の浄土と娑婆が反対語だという考えは、随分と古い。
さて、私はお寺というものは娑婆ではないと、いつも思う。お寺に来てまで娑婆の論理を振りかざす人が多いけれど、娑婆では高い地位にあったり、人を使っていたり、人にへりくだられて何ぼの人でも、お寺に来たら腰を低く、心穏やかに振る舞うのが功徳であって、それがお寺参りに来る意義なのだと思う。
お寺に来て、学校のホームルームのように、正しいことを言ってるんだから認めろと主張する人や、反対に会社の論理を振りかざして、お寺さんはきれい事を言っておられるけれど、社会ではこういうもんなんだよと言いたげな人、家庭で振る舞っている通りのぞんざいな物腰で人と接する人、お寺にお金を納めているんだから、一般の商売と同じく、それなりのサービスをしろと言わんばかりの人、あるいは自分は熱心な寺の信者で人よりお寺のことを分かっているんだからと、我を張って他人より前にしゃしゃり出る人。
彼らの考えはすべて、娑婆の論理だ。ここは寺であって、娑婆ではない。学校でも会社でも家庭でもない。寺であり、僧院であり、僧堂であり、精舎であっても、もちろんそれは人間世界の一部だから、仏の浄土のように、人の世の苦しみも執着も免れてはいないけれど、しかしなお、ここで娑婆の論理を通用させるべきではない。ここは道場だ。