奇人変人と一括りに言うけれど、奇人と変人の違いは何なのだろうとずっと考えている。辞書によっては同じ意味だとされてもいるが、奇人はどちらかと言えば変わり者だけれど、奇才、異才のニュアンスを含む。「奇人」ではなく「畸人」と書けば、「近世畸人伝」などの書名に見る如く、変人すれすれでありながら、なお凡人の及ばぬ異能者の意味合いが、ずっと濃くなるような気がする。
畸人という言葉はもちろん本来は中国の用法だから、例えば「雨月物語」の作者である上田秋成のような文学者が、自らを剪枝畸人(せんしきじん)などと号したりする訳だ。
知人である台湾人の彭雙松(ほうそうしょう)先生のことを、私が奇人と表現するのも、台湾の新聞が先生のことを「奇人」と呼んでいるからで、そのことからも、この表現が今も中国語の中で生きていることが分かる。
最近、偶然気づいたのだが、江戸川乱歩が創造した名探偵明智小五郎も、乱歩作品の中で「奇人」と表現されている。既にデビュー作の「D坂の殺人事件」で、語り手に「奇人明智小五郎」と揶揄されているし、明智がそうした初期の人間味をなくし始めたと言われている通俗長編の中でも、刑事たちが「明智という奇人」について思い出を語り合うシーンがある。乱歩にとっての理想の探偵は、オーギュスト・デュパンやシャーロック・ホームズのような、エキセントリックな存在だったからなのだろう。
ちなみに「エキセントリック」と言えば、今の日本では何となく褒め言葉のように使われがちだけれど、「奇人」を英語では「エキセントリック」と表現すると知った時には、何だかとても嬉しくなった。
ところで関西の芸人さん、とりわけ噺家さんたちの中には、奇人としか言いようのないお人柄やエピソードの持ち主が多いが、そうした方たちの暮らしぶりは、凡人からすれば、浮世離れしていてとても羨ましく感じられる。
世の凡人たちの中には、異才気取りの自称奇人さんたちも多いのだが、そんな人たちはまだ可愛らしいものだ。娑婆世界に溢れ返る、自らを一般人だと誤信する変人さんたちの群れを見ながら、ただの変人と、本物の奇人を隔てるものは何なのかと、日夜考え続けている。