善友と善知識…プラユキ・ナラテボー師の帰国 | アジアのお坊さん 番外編

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 例えば天台宗の坐禅止観では、初心者はまず呼吸を観察する数息観を行え、次いで一心三観の瞑想を行う時は、必ず善知識に依れ、とされています。

 日本仏教で「善知識」と言う時は、経験に長けた師僧、というニュアンスが大きいように思いますが、プラユキ・ナラテボー師の著作でもおなじみの、「善友」という言葉と「善知識」は、もともと全く同じ言葉の漢訳です。

 さて、タイで活躍されている日本人上座部僧のプラユキ・ナラテボー師が、11月末から日本に帰国されています。

 タイのワット・パー・スカトー寺院の副住職であるプラユキ師は、来年、タイに戻られるまでの間、また今回も、神出鬼没に日本各地の講演会や瞑想会で、仏法を伝えて下さることと思います。

 先日、お電話を下さったのですが、もうその懐かしいお声を聞くだけで、こちらの心が和らぐ気持ちがするのですから、「善友」や「善知識」という仏教の言葉が、本来、良き師、良き先輩、良き友といった意味を兼ね備えていたことを、改めて思い起こさずにはおれません。

「われらは実に朋友を得る幸せを讃め称える。自分よりも優れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである」
スッタニパータ47(岩波文庫「ブッダのことば19頁)