1990年代の前半、私がタイで修行させて頂いていた頃、日本人上座部僧の先輩、プラ・ユキ・ナラテボー師は、既に何年も前から、パーリ語のsati(サティ)を表す言葉として、英語の「awareneess」や「mindfulness」と共に、日本語の「気づき」という言葉を使っておられた。
スマナサーラ長老の日本テーラワーダ仏教協会が設立され、日本でもヴィパッサナ瞑想やサティや「気づき」といった用語が広まり出す少し前のことだが、別に誰が初めにこの言葉を使い出したとか、どちらが先だったとかの話をしている訳では、決してない。
プラ・ユキ師、テーラワーダ仏教協会、どちらとも交流のある、ミャンマー出家体験を持つ瞑想指導者の方の著作を始めとして、今ではsatiを表す日本語として、「気づき」という言葉は、日本の仏教書の中ではすっかり定着した感がある。最近でも、ティック・ナット・ハン師によるSatipatthana Sutta(四念処経)の解説が、「ブッダの〈気づき〉の瞑想 」というタイトルで日本語訳されている。
漢訳仏典ではsatiは「念」と訳されているのだが、この言葉にはいろいろと手垢が付いてたりするので、テラワーダ関係の人々は「気づき」という言葉で、その本来のニュアンスを伝えようと努力している訳だ。
ところが、近頃、啓発本やセラピー本、スピリチュアル本の中では、「気づき」という言葉が、「日常生活におけるちょっとした、けれど素敵な発見」的な甘いニュアンスで頻繁に使われているのだが、それは仏教のsatiとは何の関係もない。
同様に、近頃売れている「心を整える。」という本のことも書きたいのだが、先回りして言っておくと、この本のことを仏教の立場から批判したりするつもりはさらさらない。
「心を鍛える」じゃなくて、「心を整える」というところが、この著者のすごい所だと、みんなが言ってるのに対して、それは仏教が先に使ってる言葉だよと自慢したい訳でも勿論ない。
ただ、「心を整える」という言葉は、仏教、特に仏教的瞑想の現場でよく聞く言葉だけれど、今売れている「心を整える。」という本は、仏教とは何の関係もないということが言いたいだけだ。
ただ、「心を整える」という言葉は、仏教、特に仏教的瞑想の現場でよく聞く言葉だけれど、今売れている「心を整える。」という本は、仏教とは何の関係もないということが言いたいだけだ。
じゃあ、しっかりした人の考えることは、結局、仏教とおんなじ所にたどり着くんですね? と仰る方があるかも知れないが、その本の著者であるスポーツ選手が、たとえどんなに立派な人格の持ち主であっても、彼の著書「心を整える。」は、仏教の教えと修行法に基づいて心を整えることについて述べた本ではない。
たとえば瞑想関係の本によく出て来るパーリ語のbhavanaという言葉も、漢訳では「修習」だが、元のニュアンスをうまく伝えるために、仏教者は「心を整える」とか「心を育てる」とか、いろいろと現代の日本語を使って工夫している訳だ。
しつこいようだが、「心を整える」という言葉を、仏教の方がずっと前から使っているよということが言いたい訳では決してないけれど、天台智者大師は6世紀の頃から、天台止観の坐禅に関して、「調心」という言葉を使い、これを日本では、「心を調える」と読み下していますので、念のため。
おしまい。