インドのブッダガヤにある印度山日本寺に赴任して間もない頃、当時の駐在主任であった日本人上座部僧・三橋ヴィプラティッサ比丘の指示を受け、仏跡・霊鷲山(りょうじゅせん)の所在地として知られるラージギルへ、一人で出張することになった。
そうしたら、それを聞きつけた、お隣のブータン寺に寄宿中の若いブータン人の旅僧が、一緒に車に乗せて行ってほしいと言う。承知すると、今度はブッダガヤ在住の、とある重鎮チベット人も同行したいと言い出して、狭くても良ければと、みんなでスシ詰めになりながら、さて、我々はラージギルへと旅に出た。
それはラージギルにある、名を伏せるまでもない程の、さる仏教団体の法要に参加するための旅で、その年、ちょうどその団体は、仏跡・ヴァイシャリにも仏塔を建てたので、何日にも渡る盛大な法要が執り行われることになっていた。
私はまだ、インドに来てから日も浅く、それだけにこの時のラージギル行きについては、細かく思い出すことがたくさんある。宿舎に蛾がたくさん出て、チベット人の機転で入り口の外灯を点けたままにして、蛾をそちらに集めることで、どうにか眠りにつけたこと、やはりそのチベット人が、霊鷲山の頂上から眼下に広がる田んぼを見ながら、ブッダが袈裟の縫い方を田んぼの形の如くに定めた由来を教えてくれたこと。
法要に参加していた日本からの団体が、ビルマ人のお坊さんたちを見て、あれはチベットのお坊さんだな、などと話し合っていたので、どれがどの国のお坊さんであるかの見分け方を、お話させて頂いたこと、法要を主催する仏教団体の尼僧さんが、三橋師のことを、今のブッダガヤの主任さんは「小乗教」の方なのね、びっくりしたわと言っていたこと、現在は大乗僧としてインドにいるが、ついこの前までタイで上座部僧として修行していたばかりの私が、インドで地に足をつけて活動しているその団体のお坊さんたちに、戒律はどんな風に守っていますかと偏屈なことを聞くと、戒律即ちお題目、お題目こそが即ち戒律ですからと逃げられて、あら、まあ、それはご尤もと思ったことなどなどなど、思い出すことは枚挙に暇がない。
後に駐在同期となるH師やY師はまだ赴任しておらず、まだまだ私には、何もかもが目新しかった。三橋師と二人で過ごす異国暮らしの中で、温和なブータン僧とはその後、彼が自国に帰った後も、しばらくの間、手紙のやり取りをしたことなども、今は懐かしい思い出だ。