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日本人上座部僧の三橋ヴィプラティッサ比丘がインドのブッダガヤにある日本寺の駐在主任だった頃、三橋師はご自身が尊敬するタイの高僧アーチャン・プッタタート比丘の教えに従って、「私は」「私の」という思いを退けるべく、日常会話でも慎重に「私の」という言葉を避けておられた。
岩波文庫の「真理のことば ダンマパダ」がどこかにないかと三橋師に尋ねられたので、私の本でよかったらお貸ししますが、と申し上げると、「私の」という言葉をお坊さんが使うのは良くないと思うと仰られたことがある。
頭に「し」の付く文字を言ったら負けというゲームを始めた二人が、うっかり「し」の字を口にしそうになる駆け引きを描いた落語の「しの字嫌い」じゃないけれど、あれ、さっきダンマパダは「私の」バイブルだって仰ったじゃないですか、と思わず言いそうになってやめたのだが、最近、三橋師の訳になるプッタタート比丘の「観息正念」を読んでたら、「私は」「私の」について書いてあるくだりがあって、そうだったのかと思い当たった。
三橋師のもう1冊の訳書、プッタタート比丘の「仏教人生読本」が仏教の教えを緻密に解説したものだとすれば、「観息正念」は坐禅瞑想のためのこの上なく懇切丁寧な手引書だ。両書は是非合わせて読まれるべきだと思うので、「観息正念」の改訂CDーR版も、是非完成させて下さい、三橋師!
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