rateという英語には料金という意味と相場という意味があるが、これはインドでもおんなじで、値段交渉をしているインド人が、俺はレート(相場)を知ってるんだぞ、などと言っているのを耳にすることがある。
ラージギルの霊鷲山・多宝山に登るリフトのチケット売り場には、ヒンディー語で「レート」という文字が書かれている。これはもちろん、「料金」の意味。
先日、日本のテレビを見ていたら、男性タレント二人がインドでサイクルリキシャに乗っていて、緩い上りの坂道に差し掛かったものだから、リキシャワラ(リキシャ乗り)がリキシャを降りて車を押し始めた。そうしたらタレントたちが、ぼったくりだ、歩いた方が早いなどと騒いでいる。
リキシャに乗っていて、坂道に差し掛かり、必死で立ち漕ぎするリキシャワラを後ろから見て、外国人が貧しいインド人を酷使していいのかとか、いいや、これは彼にとっては正当な対価による労働なのだとか、リキシャワラと運転を代わってあげて、オレって何て日本人離れした行動をするんだ的武勇伝を披露したりとか、とかく日本人はリキシャに乗ることを、小難しい哲学的命題にしてしまう。
だけど坂道で人を乗せたリキシャを漕ぐのが困難なことは物理的には当然な訳で、インド人の客だって、坂道ではリキシャを降りたり、時には一緒に押したりしているし、何も難しい話ではない。
どれだけヒンディー語ペラペラの自称インド通のオッサンでも、本当のところのインド人の感覚や貨幣価値なんて、日本人には絶対にわからない。だから日本人は、あんまり偉そうに語ったり、深く悩んだりしなくていいと思う。
…とは言うものの、これはつい、1、2年前の話。ブッダガヤでちょっと距離のある村はずれの知り合いの家までリキシャで行った。わざわざ額は書かないが、結構長い距離なのにインド人が払ってるリキシャ運賃の相場は、日本人的感覚からすると、驚くほど安い。
その相場を踏まえた上で、少しだけ気持ちを上乗せした額を払ったが、それでもきっと日本人旅行者の方たちが聞いたなら、驚く程の少額だ。だのにそのインド人の知り合いに、いくら払ったのかと聞かれて正直に答えたら、センセイ! センセイはヒンディー語がわかるんでしょう! それなのに何でそんな法外な額を払うんですかと、真剣に怒られた。
馬鹿だなあ、リキシャの乗り方や運賃の相場なんてものはねえなどと訳知り顔で語り出す、自称インド通のオッサンならいざ知らず、本当のところのインド人の感覚や貨幣価値なんて、私には多分、一生わからない。