インドのブッダガヤにある日本寺に赴任した当時、私はまだ若く、経験の浅さに比して気持ちばかりが先走っていたことだろうと思う。インド人の職員が身の回りのこと全ての世話をしてくれる環境に違和感を感じ、日本だったらお坊さんは掃除も炊事もみな自分たちでするし、それが一つの修行なのだと職員に言ったところ、今はもう亡くなってしまった古参のインド人職員が私にこう言った。もしもインドでその通りにしたら、誰もセンセイのことをリスペクトしなくなります。
さて、かなり以前にテラワーダ仏教国で修行したお坊さんたちの私記などには、南方のお坊さんたちはゴロゴロしているばかりで、一日作(な)さざれば一日食らわずの大乗僧とはえらい違いだなどと書いてあることが多い。
テラワーダ(上座部)僧は戒律上、作務(さむ)をしないという見方もあるが、実際のところお寺にもよるが、腰布一つで掃除もしてたり、僧坊の修理をしてたり、結構、作業にいそしんでいる。「作務」というものに対する考え方や定義はともかくとして、日常の所作一つ一つに気づきを持つことがそのまま修行になるという考えは、大乗にもテラワーダにも共通だ。
インドの場合は少し事情が複雑で、ご存じのカースト制度が影を落とす。古参のインド人職員の言った言葉が、使用人のする仕事を僧侶がしたら軽蔑されるという例の制度に基づくものなのか、インドにおける真の修行者たるものは、決して日常的な雑務をしないという意味だったのか、本当のニュアンス、言った当のインド人の心理状態までは、インド人ならぬこの身には知る由もない。
ただ、そうしたあれこれを超克して、真の仏教僧たるもの、日常の作務や所作はこうあるべきだと、古参のインド人をも納得させるだけの蓄積が、当時の私にはまだなかった。
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