奈良の東大寺に出入りしておられる業者の方から、二月堂で毎日、修されている護摩供について、お聞きする機会があった。
その時に、一般の方の中には「護摩を焼く」と表現する方もあるようだったので、一般には「焼く」ではなく、「護摩を焚く」というのが普通で、なおかつ「焚く」という表現にすら、色々な考え方を持つ方が存在することを、改めて少しここで書かせて頂くことにした。
ある千日回峰行者の阿闍梨さんは、護摩は焚くものではなく、修するものだと仰っておられたが、兼好法師の徒然草第160段にも、護摩を焚くというのは間違いで、修するとか、護摩すると言うべきだと書いてある。
とは言うものの、護摩を焚くという言い方は通りが良いので、実際にはこの言葉を便宜的に使うことの方が多い。ちなみに、日本でチベット仏教の普及に努めておられるポタラ・カレッジの齋藤保高氏のサイト「チベット仏教ゲルグ派宗学研究室」を拝見したところ、やはり「護摩を焚く」という日本語を使っておられた。
さて、現代日本の神社には護摩木と同じ形状の祈祷木という物を置いているところがある。江戸時代の吉田神道が使い始めた神道護摩という言葉を今でも使っている神社まであって、中には火を焚く神事は仏教の護摩が行われるよりも前から日本で行われていたとか、室内で火を焚く儀礼は日本で始まったといったことを、インターネットに書いておられる方もいる。
だがしかし、忌憚なく言ってしまえば、この神道護摩は当時の仏教に対抗すべく吉田神道側が由来を付会して捏造した行法に過ぎない。因みにこれは、私が大学で神道学を専攻し、神職資格を取得した後に顕密両仏教を修する天台宗で得度してお坊さんになり、護摩修行もさせて頂いた経験を踏まえた上での意見であり、単純に仏教側から神道を貶めんがために論っているのではないことを、お断りしておきたい。
ところで、インドではヒンドゥー寺院の屋内で、仏教の護摩の基になったホーマやハヴァンといったプージャや儀式が今も行われていて、私もブッダガヤの日本寺に赴任中、ガヤのヴィシュヌ・パド寺院で護摩壇を初めて見た時には感動したものだ。
ただ、仏教の護摩の作法がインド宗教の儀礼を取り入れて成立したことは事実だとしても、ではなぜ仏教が護摩の儀礼を取り入れるに至ったのか、そしてそうまでして伝えたかった仏法の真髄が何なのかという問題を、仏教の護摩を修する行者は、常に意識しているべきではなかろうか。
日本の仏教業界において、あの人は修行ができているから護摩の火がきれいに上がるし、修法の後もきれいに壇上が片付いている、といった褒め方をよく耳にするのは、威儀が整っていることが即ち身も心も整っていることであり、そしてそれがまた即ち身口意三密相応の証しだからなのであって、炎を高く上げることそのものが、より良い護摩の条件なのでは決してないのだと、私は思う。
※「ホームページ アジアのお坊さん 本編」もご覧ください。