法道仙人と裸形上人…インドから渡来したお坊さん ① | アジアのお坊さん 番外編

アジアのお坊さん 番外編

旅とアジアと仏教の三題噺

 インドの仏跡・祗園精舎の近くにあるジャイナ教寺院にお参りした時、もう夕方で物騒だからと、お参り中のジャイナ教徒のおじさんが参拝に同行してくれたことがある。ある日本語の書籍によれば、この寺院こそが祗園精舎の鎮守神である、牛頭天王社の跡なのだとか。

 

 孝徳天皇の御代、インドの霊鷲山から日本にやって来た法道仙人というお坊さんが、この牛頭天王を播磨の国に祀った。それが後に京都の八坂に分祠され、明治の神仏分離で八坂神社と改称されるまで、天台宗が管理するお寺となり、祗園感神院と呼ばれていた。インドの祗園精舎にちなんだ祇園という地名が京都にあるのは、こうした訳だ。

 

 法道仙人の開基と伝えられる寺は、播磨、丹波、摂津、即ち現在の兵庫県に最も多く、この地方ではwikipediaの「法道仙人」の項にも載っていない、山間のお寺の堂内で、法道仙人の像に出会って驚くこともある。

 

 ところで、那智山の開基とされる裸形上人(らぎょうしょうにん)は、仁徳天皇の御代にインドから熊野に流れ着いたとされる。この裸形上人のことを、ジャイナ教裸形派の行者ではないかとする説があるようだが、仏典に裸形外道という言葉が見えるからと言って、仏教も伝来していない時代の日本人に、仏教とジャイナ教の区別ができる訳もないから、いくら何でも、ちょっとそれは無理だ。

 

 法道仙人はお坊さんなのに、なぜ一角仙人のようなインドの行者と同じく、仙人と呼ばれるのか? という疑問を持つ人がいる。私が思うのに、鉢を空中に飛ばしてお供養を受けたといった類の、同じ仙術的な奇跡譚を持つ日本のお坊さんは他にもたくさんいるのに、法道だけが仙人と呼ばれたのは、きっと法道がインド人だったからだ。当時の日本人から見れば異形だったであろうその姿は、人々に実際以上の強烈な印象を与えたからこそ、この呼称が生じたのだろうと思う。

 

 裸形上人という名称も同様で、もしも本当に太古の日本に、テーラワーダ僧やサドゥー(ヒンドゥー行者)のような格好をしたお坊さんが流れ着いたのなら、それはもう、裸形上人とでも名付けなければ、しょうがなかった程のインパクトだっただろうと思う。

 

 私は昔、比叡山での修行を終えて、タイのお寺に渡るまでの間、那智山のお寺で修業させて頂いたことがあるのだが、毎日、本堂に掲げられた浅黒い肌の裸形上人図を眺めながら、正確な時代や伝承の内容はともかくとして、先ずは大昔の日本にインド人のお坊さんが辿り着いたことだけは、事実だったのだろうなあと想像したものだ。