インドのブッダガヤにあるチャクマ寺は、インドとバングラデシュの国境付近に住むチャクマ族という民族のお寺だ。住職はチャクマ・バンテー(チャクマ和尚)と呼ばれるお坊さんで、小柄な体つきと人を食った言動、とぼけた人柄で、各国僧侶はもちろん、地元の村人たちにも愛されている。
先年、お会いした時、両手で私の手を握り締めながら再会を喜び、なぜかタイ人が愛用する、ヤードムというメントール点鼻薬を下さった。仏跡巡拝のタイ人団体のお供養でもらった物なのだろう。
初めてバンテーにお会いした頃、日本の坐禅はどんな風にするんだ? とチャクマ訛りのヒンディー語で聞かれた私が、吸う息と吐く息に集中することを、覚えたての拙いヒンディー語で説明すると、「アーナー(吸う)、アパーナー(吐く)、same! same!」と無邪気に喜んでおられた。ちなみにアーナーとパーナーというのはパーリ語で、テラワーダ仏教では吸う息と吐く息に集中する瞑想法を、アーナーパーナ・サティと呼ぶ。
さて、当時の日本寺の駐在主任、三橋ヴィプラティッサ比丘に先日、久々にご連絡差し上げた縁で、師が翻訳された、アーナーパーナ・サティ瞑想の解説書「観息正念」を再読していたら、ヨガの行者が水や紐で鼻を掃除するのと同じで、呼吸に集中するために、普段から鼻をきれいにしておくのも大事なことだという話が出ていた。それで、タイ人がヤードムを鼻に点すのも、坐禅の助けになるのかなあと考えた途端に忽然と、チャクマ・バンテーのことを思い出した。
天台宗の坐禅止観では、呼吸を数える数息観(すそくかん)から、数を数えずに、ただ息に集中する随息観(ずいそくかん)、そして天台独自の一心三観(いっしんさんがん)へと順次、移行する。曹洞宗では只管打坐(しかんたざ)と言って、呼吸に集中することにすら重きを置かずに、ただ坐る。
だから日本のお坊さんには、呼吸に集中する坐禅法は初心者向けのものだと思っている人も多いのだが、タイの名僧プッタタート比丘が著した、この「観息正念」を見ても明らかなように、ブッダは本来、アーナーパーナ・サティ瞑想のみを、悟りに至る修行法として説いたのだ。
そしてチャクマ・バンテーもこの瞑想法を実践していたんだなあと思うと、何だか感慨深くなった。ところで、チャクマ・バンテー、あなたが下さった鼻薬、どうも新品ではなかったような形跡がありましたが、もしかして?