肉牛の殺される様子を子どもたちに見学させて、食べ物の有難さ、生命の大切さを教えようとしている学校があるそうだ。牛が苦しまないように配慮して殺すことなどを説明し、こうした仕事に携わる人のたちのお蔭で肉が食べられることを教えるとかで、教師の言い分では、その後、子どもたちが目に見えて優しくなったのだという。
別の学校では、豚を飼育して業者に売り、一部を給食で食べさせているそうだ。こちらは食材がどのように食卓に上がるのかを、社会的、経済的に理解させる目的もあるそうで、「ペットと一線を画すため」、豚には名前を付けずに育てるのだという。どちらの話も2009年11月3日付の読売新聞に載っていたのだが、こうした教育を既に受けてしまった子どもたちには、殺される側の豚の恐怖を描いた宮沢賢治の童話、「フランドン農学校のぶた」を是非読んでほしいと思う。
10代の頃に日本の説話集を読んでいたら、狩猟を生業とする男や、鳥の子、つまり玉子を好んで食べていた男が殺生の報いを受けて災難に会う話などがたくさんあって、明治以降なら問題にならないことなのに気の毒だなあ、と思ったことがある。
昔の人が、無闇に人間や他の生き物の生命を奪う人のことを、「それでは畜生と変わりがない」と非難したのは、動物は食物連鎖の中で生きているから仕方がないけれど、智慧の生じた人類には別の対処があるはずだ、ということを言っているのであって、単純に動物を「畜生」として貶めていたのでなかっただろうと思う。
昔の人が、無闇に人間や他の生き物の生命を奪う人のことを、「それでは畜生と変わりがない」と非難したのは、動物は食物連鎖の中で生きているから仕方がないけれど、智慧の生じた人類には別の対処があるはずだ、ということを言っているのであって、単純に動物を「畜生」として貶めていたのでなかっただろうと思う。
確かに食物連鎖は自然の摂理だし、たとえ人間みんなが菜食主義者に切り変ったとしても、植物の生命を己の生存のために奪っていることには変わりないが、しかし、ライオンがシマウマを殺すのと、人間が無闇に生き物の生命を奪うようなシステムを社会的に作り上げていることでは、全く意味が違う。
肉食は自然の摂理ではないのか、食べなければ死ぬではないか、人類全員が菜食主義者になるなんて不可能だ、現在の畜産システムを地球規模で改善するなんて無理だ、などといろんな意見があるだろうけれど、できる限りは不殺生を心がけ、心を成長させることで智慧が生じたら、きっと解決法は自ずと明らかになるはずで、解決法が現時点で見当たらないから、努力しなくてもいいという考えは間違っている。
残酷だからと言って、臭い物に蓋をするような教育もおかしいが、だからと言って、先の新聞記事のような教育を続けていたら、軍人や諜報員が国家のために、テロリストが神や理想のために、人を殺すことに対して不感症になるように、一定の理由さえあれば他の生命を奪うことは正しいことだと考える精神や思考回路を養うだけだろう。
ちなみに記事中には、育てた豚を殺すのはかわいそうだと言っている子どもに対し、もっとよく理解するようにと諭している、教師のコメントまで載っている。本当に生命のことを考えさせたいのなら、慈悲を養い、智慧の生じる教育システムをこそ、開発してほしいと願う。
「アジアのお坊さん」本編もご覧下さい!!