日本の伝説では「三枚のお札」型の昔話や、牡丹灯篭型の怪談などにおいて、お札や護符は妖怪や悪霊を退ける強力な呪力を有する。牡丹灯篭は中世の説話集に典拠を持つし、「太平記」にも楠木正成が観音の肌守りによって九死に一生を得た話があるから、こうした信仰は古くから日本人に根付いていたことがわかる。
日本の寺社で授与しているお札やお守りには、そうしたオーソドックスな型から工芸品のように美しい物、子どものおもちゃのような奇妙な物まで様々あるが、昔ながらの型は本来、道教の護符信仰に基づいていて、現在でも中国、台湾、東南アジアなどでは中華系のお札をしばしば目にする。
台湾や韓国のお寺の授与所でも干支守りやキーホルダー守り、お守り付きの数珠などを置いていて、日本同様、資本主義経済の市場が盛んになるとヴァリエーションが増える傾向にあるのだろうけれど、それを見たり、手にした人の菩提心を喚起するのなら、あながち非難すべきことでもないと言える。
俗にお守り袋を開けると効力が失せるというのも、袋の口を締めることによって信仰心を強固にするためだし、複数のお守りを持つと神仏が喧嘩するなどという俗信も、信仰心が分散してしまうことを危惧しているわけだ。
そこでタイのプラ・クルアンなのだが、これは大方、素焼きの仏像もしくは僧侶像で、略してプラとも呼ばれている、大変効力があるとされている小さなお守りのことだ。複雑なコレクターの世界があることも含めて、タイ通の日本人にも良く知られているが、特に「タイ現代カルチャー情報事典」(ゑゐ文社)の説明は、大変に詳しい。
で、いくらタイの高僧方が加持をして、これがタイの仏教の一部をなしているとしても、やっぱりこれは本来のブッダの教えとは遠く離れた民間信仰だ。こういうことを民間信仰と決めつけるから日本の坊さんは駄目だとか、こういうものは日本のお守りと違って相当な呪力があるし、それが私には感じられる、などと思い始めると、ほら、それがもう、あなたの我だ。お守りを持ちたければ持ってもいいが、数珠を持つのとおんなじで、それは仏縁を結んで我を離れ、つねにsati、すなわち気をつけているために持つのだということを、ゆめゆめ忘れないようにしたいものだ。